HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報645号(2023年5月 8日)

教養学部報

第645号 外部公開

〈後期課程案内〉文学部 変容のステップ

人文社会系研究科長・文学部長 納富信留

https://www.l.u-tokyo.ac.jp/

 人生にはいくつものステップがある。それまでとは役割も環境も人間関係もすべてが変わるような、そんなステップである。入学と卒業、就職など、人生の節目となるステップを経て、私たちは人間として成長していく。大学入学では、もしかしたら受験という大きな流れのなかで我を忘れて進んできたかもしれないが、専門課程への進学はそれとはまったく違う。大学の学問と生活にしばらく身を置いて、そのなかであれこれ悩み考えながら自らの専門分野を選択する、主体的で能動的な変化だからである。
 駒場から本郷の文学部へと進学した四十年近く前に、私はその違いを肌で感じた。学問のあり方や議論の進め方だけでなく、人々の顔つき、木々や建物や空間の色調、そして染み入るような静けさと重さと深さに至るまで、まったく違う風景が広がっていた。それは、知のとびぬけた明るさと心が浮き立つ眺めを駒場の授業で経験した私にとって、はるかに長い時間の流れに身を任せて、落ち着いて世界と歴史と自己を見つめる場に身をおき直す、そんな変化だった。文学部の諸学問、私が選択した哲学をはじめ、歴史学や文学や芸術学や社会学や心理学は、そんな新たなステップとなった。
 次のステップに進むとは、自分自身が変容することである。「変容」は英語では「トランスフォーメーション」、古典ギリシア語では「メタモルフォーシス」。近頃やや軽々しく使われる嫌いがあるこの言葉は、哲学的にはきわめて重要で興味深い概念である。あるものが一つのあり方からまったく異なる別のあり方へと変わること、それが変容だとすると、次のようなパラドキシカルな状況に直面する。Aという状態にいる者がBという状態に変容する時、Aである時にはBであることは知ることができず、Bになった時にはもはやAであった状態を理解できない。変容は損得を計算して合理的に遂行するものではなく、いわば未知の世界へ飛び込む冒険なのである。
 これでは分かりにくいだろうから、分析実存主義でこの問題を論じたL・A・ポール『今夜ヴァンパイアになる前に』(奥田太郎・薄井尚樹訳、名古屋大学出版会)の例を借りよう。あなたはすばらしい未来があると考えて、ヴァンパイアに変わる決断をしたらどうだろう。実際にヴァンパイアであるとはどういうことか、あれこれ他人の意見を聞いたり想像はしても無駄である。あなたが人間であるあいだは知ることができず、ヴァンパイアになったら感覚も物の見方もすべてが完全に変わってしまうのだから、その決断が果たして良かったのかさえ判定できない。つまり、変容する前には、変容するとどうなるのか、変容するとはどういうことなのかは、原理的にまったく分からないのである。人生の重要な変化とは、おそらくすべてがこのような不思議と魔力に満ちているのだろう。
 文学部に来るということは、そんなマジカルな変容である。若い学生諸君に、文学部に入ったらどうなるのか、なにか良いことがあるのを尋ねられても、私はなにも言うことはできないし、言ってもほとんど意味はない。それぞれの人が自分で考え決断して、その変容を自ら経験していくしかないからである。そこで夢のような新たな人生を手にいれる人も、まったく思いがけない苦難に直面する人もいるだろう。それは、あらかじめ計画をたて成果を予測して進むような、そんなものではまったくない、超越的な飛躍なのである。
 だが、決断は責任を伴う。そして決断と責任はけっして一時的なものではなく、その後にもつながる長い道ゆきの始まりである。だが、その歩みは、計り知れない実りと喜びをもたらずはずだ。そうして、私たちにそのステップへとエイヤッと踏み越えさせるのは、夢と希望と勇気なのである。
 変容することは恐ろしい。知らないものはすべて悪く、怖く見えるからである。だが、好むと好まざるとにかかわらず変容は訪れる。強いられてではなくそれを自らつかみとるのが、人生のステップではないか。変容を怖れること勿れ!
 文学部で学び研究する学問とは何か。その説明はさまざまな学部案内に書いてある(ぜひ読んでください)。しかし、それはその中に飛び込んで身をさらし経験した者にしか、本当には分からないものなのだ。人間である者がヴァンパイアになったらどんな人生経験があるのか想像すらできないように。いや、私自身、文学部という場に長年身をおいてきても、まだ深さも広さも、それが何なのかさえ分からない、そんな物凄いものなのだ。
 変容を経験した今、この私が自身の経験において言えるのは、ただこれだけ。文学部は素晴らしい。哲学を学ぶことに至上の喜びを感じる。そして、文学部を選んだことを、私は誇りに思っている。

(文学部長/哲学)

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