HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報645号(2023年5月 8日)

教養学部報

第645号 外部公開

<本の棚> 森山 工 著『「贈与論」の思想―マルセル・モースと〈混ざりあい〉の倫理』

田中 純

 マルセル・モースの「贈与論」は、「贈与」という社会的行為・現象をめぐり、人類学・民族学ばかりではなく、さまざまな思想に多大な影響を与えた古典的テクストである。本書はこの「贈与論」を、第一部では同時代(一九二〇年代前半)におけるモースの社会批評的論説・論考との関係という観点から外在的に、次いで第二部ではこのテクスト自体に深く斬り込んで内在的に考察している。前著『贈与と聖物─マルセル・モース「贈与論」とマダガスカルの社会的実践』(東京大学出版会)あとがきで著者は、「モースと目が合ってしまった」かのような体験を語っているが、本書はそんな著者だからこそ描けた、モースという思想家のあらたな「肖像」であると言ってよい。
 それは著者が外在的アプローチを重視する点に関わる。そこで強調されるのは、モースが学者であると同時に、筋金入りの社会主義者かつ消費協同組合運動に精力を傾けた社会活動家であり、その立場からボリシェヴィズムやファシズムの動向、あるいは、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』を手厳しく批判する、おびただしい論説を発表していた事実である。こうした側面は「贈与論」に深く関係しているにもかかわらず、日本では十分に顧みられてこなかった。だからこそ著者は、「社会的」や「社会」といった言葉が当時のフランス語でいかなる意味を有していたかの詳細な検討を端緒に、モースの言説の豊富な引用にもとづく間テクスト的読解を通じて、この理論家かつ実践者が同時代の社会に向けた視線をまざまざと浮き彫りにするのである。
 モースは西欧近代以前に「贈与」という慣行においてさまざまな精神状態が「混ざりあっていた」アルカイックな原理が、協同組合運動をはじめとする同時代の社会的変革のうちに「回帰」しつつあることを事実として認め、なおかつ、その動向を一つの倫理として高く評価した。モースは言う─「必要なのは、こうした変革がよいものだと述べること、これなのである」。著者は「贈与論」のなかで自分が「もっともシビれる一節」はこれだと吐露している。倫理的な価値判断をあえて表明する、社会活動家としてのモースの真骨頂がここにある。
 第二部における読解の最大の焦点は、著者が独自に見出した「混ざりあい」という鍵概念である。モースは贈与される物それ自体を、力能をもつ作用主と見なし(著者はその点でモースを「内在論者」と呼ぶ)、物と霊魂との「混ざりあい」や贈与者と受贈者との「混ざりあい」など、さまざまなレヴェルにおける「混ざりあい」について語っているのだ。この概念の発見と並んでスリリングなのは、著者がモースのラジカルな「内在論」の論理を、人と人、人と物、さらには物と物とがすべて同じ作用主の資格で関係し合う、一元的な「関係論」へと見事に反転させている部分であろう。いずれも徹底したテクスト分析ゆえの醍醐味である。
 社会を一つの「全体」ととらえるモースの視点に立てば、贈与をはじめとする社会的事象において、法的・倫理的・政治的・経済的・宗教的・審美的などのあらゆる種類の制度は「混ざりあい」、そこで一挙に表出されている。重要なのはその際、個別なものが事後的に混淆するのではなく、未分化な状態こそが先行すると考えられている点である。著者によれば、モースは義務と自由が未分化なままに「混ざりあった」贈与の倫理を西欧近代社会に復権させようとした。それは人と人、人と物、物と物の関係を再編することであり、この倫理的態度がモースの人類学・社会学と社会実践の両者を貫いている。ちなみに、本書で評者がもっとも「シビれ」たモースの言葉は、社会主義とは「資本主義体制下にある今からただちに」プロレタリアートに「そのきたるべき生を生きさせること」である、という一節だった。それは暴力革命によらずして社会に「混ざりあい」を「今からただちに」もたらそうとする、中庸だがラジカルな実践の宣言にほかならない。
 最後に、著者は大学行政第一線の実践者でもあるがゆえに、大学という場におけるモース的倫理の継承をアクチュアルな課題として挙げておきたい。なぜなら、大学とは知の「贈与」を通じて「混ざりあい」の倫理が最大限に発揮されるべき、極めつきの社会的場だからである。

image645_07_1.jpg
   (インスクリプト、二〇二二年)

(超域文化科学/ドイツ語)

第645号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報