HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報648号(2023年10月 2日)

教養学部報

第648号 外部公開

河合隼雄学芸賞を受賞して考えたこと ――物語性、そして畠中尚志

國分功一郎

 拙著『スピノザ─読む人の肖像』(岩波新書、二〇二二年)が第十一回河合隼雄学芸賞を受賞した。構想から完成まで約一〇年という時間を費やしたこの本に、栄誉ある賞をいただけたことを大変ありがたく思う。

 この賞の条件には、「優れた学術的成果と独創をもとに、様々な世界の深層を物語性豊かに明らかにした著作に与えられる」と書かれている。「物語性豊かに」という文言に私は感慨を抱いた。

 これまでどんな本を書くときも、私は一冊の中にある物語性を重視してきた。哲学の書籍は論文集も大切だが、大きなストーリーをもったものが同じくらいたくさん書かれねばならないというのが若い頃からの持論だった。小説に喩えれば、短編集だけでなく長編が同じく書かれねばならないということである。私の担当はおそらく長編なのだと自分で勝手にそう思ってきた。だから、一冊の中にある物語の展開を大切にして本を書いてきた。今回の『スピノザ』もそうである。

 「物語」という言葉は私が若い頃はむしろ否定的な意味をもっていた。「それは物語にすぎない」という言い回しが、リアリティから目を逸らしていることへの批判として機能していた。しかし私は物語性こそが、哲学的な概念を読者の心に留めると考えてきた。どんな概念も何らかのストーリーの中に位置している。そのストーリーが上手に語られた時、概念は読者の心の中に留まる。ちょうど、小説の登場人物のストーリー上での振る舞いが一生忘れられない印象を読者に残すことがあるように。そして、概念は読者の心の中で何度も反復され、少しずつその秘密を明らかにしていく。

 哲学というと〈考える〉を最初に思いつくけれども、私にとっては、哲学的な概念を登場させる物語を〈読む〉こと、そしてそれを〈語る〉ことが、それと同じく重要であった。「読む人の肖像」という副題にもその意味が込められている。物語性を重視する河合隼雄学芸賞をいただいたことで、私は自分がこれまで哲学に向き合ってきたその姿勢を評価していただけたように感じて、とてもうれしかった。

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 もう一つ、この賞に対して私は特別な想いがあった。私はこの本を出版した直後、自らが編集に関わった『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫、二〇二二年)という本に長文の解説を寄せた。畠中尚志(一八九九〜一九八〇年)は岩波文庫でスピノザの全哲学著作を翻訳出版した偉大な学徒である。ところが、尚志の生と業績が顧みられることはこれまでほとんどなかった。一般の読者層においてならばともかく、スピノザ研究においてもその事態は変わらなかった。私はそれを苦々しく思っていた。

 それ故、一〇年前に『スピノザ』を構想した際、終章「或る日本のスピノチスト─畠中尚志」で、その生と業績を大々的に紹介することを決めていた。しかし、執筆を進めながら、スピノザ哲学の紹介と畠中尚志の紹介とは別々にした方がよいと思うようになった。それはずっとこの本の執筆を手伝ってくれた盟友互盛央氏の意見でもあった。書籍編集者でもある互氏は、尚志が残した文章をすべて掲載し、私が解説文として尚志の評伝を書く本の構想を示してくださった。先の書物はその実現である。

 尚志は大学の教壇に立ったことはなく、そもそも大学を卒業しておらず、当然、学問的な教え子はなく、著書も一冊もなかった。何より強調しなければならないのは、尚志がずっと病の中で仕事をしていたことである。 尚志は一九二二年(大正一一年)、東京帝国大学法学部に入学するも、旧制第二高等学校時代から患っていた脊椎カリエスが悪化してすぐに休学している。その後、まるで天啓のように「スピノザを研究しよう。この哲学者に一生を捧げよう」というひらめきを得て大学を退学する。この病の患者はずっとギプスベットに縛り付けられたまま安静にしていなければならない。戦争中、福岡にいた尚志は、「仰臥」したまま、手でノートを保持し、そこに鉛筆で訳文を記していったという。 敗戦直後、岩手に住まいを移した尚志に、今度は両目の疾患が襲いかかる。「今や私の学究生活の最後の拠点が奪われようとしたのだった。長い病臥生活に身の不幸を歎くこともなかった私も、この過酷な試煉に対しては天を仰いで嗟歎する気持ちだった」(「仰臥追想」)という尚志の言葉は強く読む者の心を打つ。

 尚志の翻訳を手伝ったのは妻のしま子であった。両目をいたわるために文字を凝視することが許されず、また非力のためにノートを手で持つこともできなくなった尚志は、『エチカ』の訳文を口述し、それをしま子が書き取った。私が学生時代から親しんできた岩波文庫版の『エチカ』は、尚志が口頭で述べた言葉を、しま子が紙に書き取ったものだった。この事実を知った時、私は海をはじめて目にした子どものように呆然とした。

 尚志がずっと横になって仕事をしていた部屋がいまも岩手県一関市花泉町金沢に残っている。私は一度、尚志の長女の美菜子さん、次女の礼美子さんに案内してもらい、その部屋を訪ねたことがある。部屋には安倍能成の手による毛筆で「不嘲不歎不呪而唯識」と書かれた半切が飾られていた。スピノザ『国家論』の有名な文句「笑わず、歎かず、呪詛もせず、ただ理解すること」の漢文訳だ。安倍は戦前に旧制第一高等学校(現在の東大教養学部)の名校長と呼ばれた人物である。スピノザについての著書もある安倍は尚志のことを気にかけていたらしい。

 『畠中尚志全文集』と『スピノザ─読む人の肖像』は二冊で一冊の本である。私は僭越ながら、一度もお目にかかることの叶わなかった畠中尚志先生にこの賞を捧げたい。これがこの受賞について私が抱いている特別な想いである。

(超域文化科学/ 哲学・科学史)

教養学部報645号(2023年5月号):<本の棚> 國分功一郎 著 『スピノザ ―読む人の肖像』

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