HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報658号(2024年11月 1日)

教養学部報

第658号 外部公開

ロシア宇宙主義と私たちの現在

乗松亨平

image658-2-1.png 一九世紀末から二〇世紀前半にかけてのロシア・ソ連に、人類の不死化と宇宙進出を唱える思想家たちがいた。これらの思想家たちを集めたのが、本年四月に刊行されたボリス・グロイス編『ロシア宇宙主義』である。

 ロシア宇宙主義は、キリスト教と近代科学の複合から生まれた。人類の不死化はキリストの復活に倣ったものだし、宇宙進出は、人類が神の代理として宇宙を統御すべきだという考えにもとづく。神はこの宇宙の秩序を定めたが、それはまだ実現していない。人類と神との協働がそれを実現させるのであり、その協働の手段は科学である。たとえば本書には、液体燃料による多段式ロケットの原理を初めて証明したとされるツィオルコフスキーの唱えた、原子の不死の生をめぐる理論が収録されている。ほかにも、これまでに死んだ全人類の復活、血液交換による長寿など、奇怪な思想が目白押しだ。

 けれども今日の私たちにとって、これらの思想はたんに奇怪なものではない。遺伝子研究やナノテクノロジーが人類の寿命延長を期待させ、一時は停滞した有人宇宙飛行も活気づいている。ロシア宇宙主義の夢の実現が間近なのかもしれない。とはいえそこには根本的な違いもある。ロシア宇宙主義はあくまでも人間が神の協働者であると考えたが、実際には、人類の不死や宇宙進出を可能にするのは、人類の統御を超えた人工知能かもしれない。また、ロシア宇宙主義の始祖フョードロフは、これまでに死んだ人間を一人残らず復活させるよう説いたが、実際には、不死になり宇宙に進出するのは一握りのエリートだけで、人類のほとんどは汚れきった地球に置き去りにされるかもしれない。

 このようにロシア宇宙主義は私たちの現在を反省させる。だがそれは、ロシア宇宙主義が現在より「よい」という単純な話ではない。フョードロフは西欧近代の資本主義を神の摂理に反するものとみなし、ロシアにはそれに対抗する使命があると主張した。これはロシア・メシアニズムと呼ばれる、ロシアを特権視する思想の一種である。死者の遺物を収集することが復活につながるとフョードロフは考えたが、ロシアはそうした収集にとりわけ熱心な国であり、かつてモンゴル帝国の支配で分裂した国土を集めなおした歴史は、その表れであるという。祖先の遺物の収集と、国家の領土拡大が重ねられるのだ。

 このような主張は、ソ連崩壊で分裂した「ロシア世界」の再収集を掲げるプーチンを思わせないだろうか。プーチンがフョードロフやロシア宇宙主義から直接影響を受けている、ということではない(そうした憶測が時折みられるが根拠薄弱である)。しかし思想や文化と政治との関係は、政治家が思想家の本を読んでそれを政策化する、といった直接的なものにかぎらない。影響とは本質的に意識されないものだ。影響は与えるものと与えられるものだけで成り立つ単純な関係ではなく、多数の要因が絡まった複合的な関係であって、その全体を認識することはできない。

 すべての死者を復活させるというフョードロフの思想の背景には、「ソボールノスチ(直訳すれば集合性)」というロシアの宗教哲学の概念がある。個が個を超えて集合することで全体が成り立ち、そうした全体のなかで個は真の個たりうる、というその概念は、西欧の個人主義に対抗するロシア独自のものとして発展させられたが、実際にはドイツの観念論哲学の影響を強く受けている。また、同様に個人主義に対抗しようとした社会主義とも共通性がある。さらに、多数の民族(個)を統合するロシア帝国(全体)を理想化する概念として用いられることもあった。ソボールノスチをめぐるこれらの絡まりあいが、ロシアを特権視する思想の一部をつくりあげ、ロシアで植民地主義への反省が進まない一要因になっているのではないか。ロシア宇宙主義はこうした意味でも現在を考えさせる。

 ロシアのウクライナ侵略は、思想・文化と政治との関係をめぐる言説を単純化させた。ロシアに関わるものをみな侵攻と直結させるような単純な言説が当初広まり、研究者を含めたロシア関係者にはそれに反発する人も多かった(特に「キャンセル・カルチャー」は反発を招いた)。そのせいか、侵攻はプーチン政権が勝手にやっていることで、ロシアの文化や一般市民とは関係ないのだ、という逆側に単純化した言説が生じた。実際には、侵攻を支持ないし黙認するロシアの文化人や市民は少なくない。政権に抵抗する勇気ある人々がいることは事実だが、抵抗が広まらないのは暴力的強権のためばかりとはいえない。

 文化と政治は直結するものではないが、無関係でもない。あらゆるものは間接的かつ複合的に関係している。そのようにして、ロシア宇宙主義は私たちの現在と関係しているし、ロシアのウクライナ侵略も私たちと関係している。いままで意識してこなかった関係を、誰かが意識するきっかけに『ロシア宇宙主義』がなってくれれば嬉しい。

(超域文化科学/ロシア語)

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