HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

<本の棚> 今橋映子・井上 健 監修・編、佐藤 光・波潟 剛・佐々木悠介・松枝佳奈・李範根 編『比較文学比較文化ハンドブック』

松井裕美

新時代の「学問のススメ」──ボーダーラインを問う比較研究実践の書

image659-2-3.png 数十名にもおよぶ豪華な著者陣により出版された『比較文学比較文化ハンドブック』は便覧の顔をした手引書であり、手引書の顔をした最先端の研究紹介である。そこに満ちているのは、「比較」という言葉を冠する方法論の形成とそこから逸脱する試行錯誤の歴史が、各分野にわたっていかに実り豊かな研究の蓄積をもたらしてきたのかを概観するという、ときに目も眩むような壮大な実験にほかならない。

 本書は三部で構成されており、第一部は比較研究の歴史と方法の解説、第二部は読書案内、第三部は専門的に比較研究を目指す際の実践的な案内が配置されている。とりわけ多くの読者にとって有益なのは、疑うことなく第一部である。そこでは各記事において、方法論的な解説と、そのことを知るために読むべき文献の紹介、理論を実践に移した研究事例の紹介が行われている。したがって第一部のそれぞれの記事が、初学者には読書案内として、研究者を志し始めた学生には各専門家の研究実践の紹介として、さらにすでにそれぞれの専門を持って研究者として活動している者にとっては今後の研究課題を見つける際の着想源として、といった具合に、読者のそれぞれのステップに応じて何かしら有益な知見が得られるよう工夫されている。

 井上・今橋両氏による総説の記述を踏まえるならば、比較研究とは異なるAとBを比較する、という単純なものではなく、国境や言語、ジャンルの「既存のボーダーラインを問う」ためのものである(ⅺ頁)。その根底には、「文化的価値観は、歴史的社会的規定の中で形成される」(今橋「普遍」、28頁)という意識がある。したがってボーダーラインを問いながら、それまでの価値観や分類法による事物の理解を疑うという作業が不可欠になる。当然のことながら、必要とされるのは、新しいものの見方を可能にする理論である、ということになる。本書でも取り扱われる理論は、間テクスト性の概念から物語論、アダプテーション論、ポスト・コロニアリズム、そしてクイア理論と非常に幅広い。

 もちろんこうした諸々の理論を紹介するハンドブックは存在するが、本書を類書から分つ点は、理論を超克する研究実践の重要性が、繰り返し形を変えて主張されていることにある。テクストそのものの精読がもたらす新しい知見こそ、私たちをボーダーラインへの問いへと導く鍵であるのだということが、ここでは具体例をもとに説得力を持って示されている。とりわけ今橋による「エクスプリカシオン・ド・テクスト」の項では、「未知のテクストの細部にまで向き合う」(30頁)ことの重要性が述べられる。そうして導かれたボーダーラインに立ち歴史を捉え直すと、今度は「スタティックな制度の比較」とは異なる形で「生成発展プロセスの比較」を行う、発見的方法論が、研究対象にあわせて新たに立ち上がることになる(池上「比較史」、27頁)。ただボーダーに立つということは、その都度「自分が当然と思っていたことが否定される」葛藤をも受け入れる、ということを意味する(稲賀「異文化理解」、149頁)。この「受け入れ」を研究成果に結びつけるには、一方では「知的好奇心とバランス感覚、そして旧来の常識や慣習に異を唱える論点への理解と共感、そしてわきまえ」(川本「『文学理論』と比較文学」、19頁)が重要となる。そして他方では、波潟が「モダン」という言葉の意味の捉え難さについて語った表現を借りるなら、「やっかいさを楽しめるかどうかが、次のステップを踏めるかどうかのカギ」(25頁)となる。

 各々が研究対象と真摯に向き合い、既存の理論の問い直しを行いながらそれぞれのバランス感覚を模索し、場合によっては自分自身の見方や基準を問い直すことにもつながる緊張感をはらんだ「やっかいさ」をも楽しむこと、この新時代の「学問のススメ」は、研究へと足を踏み入れたばかりの初学者にとって最良の道標となるだけでなく、分野を超えて多くの研究者の新たな共通理解を得るものであるに違いない。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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