教養学部報
第664号
<時に沿って> さまざまな空気の中を生きる
桑山裕喜子
二〇二五年四月より総合文化研究科超域文化科学専攻文化コンプレクシティ講座(ドイツ語部会)講師となりました、桑山裕喜子と申します。専門は哲学(感情・情動・雰囲気の現象学・日本哲学)ですが、感性学、ケアの倫理学、ジェンダー論や環境倫理学にも興味を抱いてきました。学部時のケルン大学での留学生活に感化され、修士・博士課程をドイツ(ボン大学とヒルデスハイム大学の大学院)で過ごしました。博士課程の学位取得直前と直後は、フランス国立東洋言語文化学院大学にお世話になり、哲学・人文学研究や教育活動のみならず、ヨーロッパの現在の課題や、京都学派内外の日本哲学について学び、議論する機会に恵まれたと思います。
博士課程三年目の時でしょうか。まだドイツに住んでいた頃のことです。なぜか自分はこの先ドイツに骨を埋めるのだろうと考えていた時期がありました。毎年必ず一時帰国ができるわけではなかったので、博士課程の充実した生活に没頭するまま、日本の社会規範や風習について忘れていた時期がありました。久しぶりに帰国すると、旧友が何の話をしているのかさっぱりわからなかったり、言葉の音素からしてよく聞こえなくなったりしていることに気がつきました。「母の味」を口にするたび、こんなに美味しいものがあったのかと涙が出そうになることもありました。ドイツに戻る日が迫ると毎度、実は明日もここにいるのでは、と思ったかと思うと、その翌々日には、まるで何もなかったかのようにドイツでの普段の生活に完全に戻っているのが常でした。人間はどうやら、「今」いるその場のコンテクストに知らぬ間に順応して動いているようです。東京に居を戻したのは二〇二三年七月半ばですが、いまだにヨーロッパに出張で顔を出すと、昨日までそこにいたかのような錯覚を覚えます。国を跨ぐとも跨がなくとも、このような経験をしている方はたくさんいらっしゃられると思います。どうやら私たちは、その場のコンテクストや「空気」に順応しながら、あるいは順応のしづらさや抵抗を覚えながら、毎日を生きているようです。「順応」してしまっている時も、そうでない時々も、一体何を大切にし、次の世代に何を残していきたいのか、といった問いに関わる「自由」だけは手放さないように、と気づかせてくれたのはヨーロッパでお世話になった親友や同僚、先輩や先生方の皆さまだと思います。
帰国後すぐの私の浦島太郎生活を支えてくださったのは、帰国直後に勤務を始めた総合文化研究科・教養学部附属「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」の先生方と助教、研究員の仲間たちです。世界に溢れる社会・環境問題は、東京・日本の中にも同様にして凝縮してあることを目の当たりにしながら、個々の問題にどう対応し、他者とどう対話を繋げていけばいいのか、素晴らしい仲間たちと共に考え、意見を分かち合う機会に恵まれました。これからは、主に学生と教職員の皆さまと共に、哲学・人文科学を通し学べることがどう社会・環境に活かせるか、言語や文化、領域の壁を越えながら考え、動いていけるようでありたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
(超域文化科学/ドイツ語)
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