HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報666号(2025年10月 1日)

教養学部報

第666号 外部公開

<本の棚> 橋本大樹・渡部直也・黄 竹佑 編『生成音韻論の歴史と展望 ―田中伸一教授還暦記念ハンドブック―』

平山真奈美

image666-02-1.jpg 本書は、そのタイトルからもわかるように、音韻理論に関して、あるいは音韻論のさまざまな概念についてのハンドブックとして機能する。同時に、「生成音韻論の歴史・進展を、時代的・テーマ別にその概要を俯瞰できる『百科事典的な音韻論の総覧』」(p. 15)である。このような性格ゆえ、音韻論入門レベルの知識があると面白さが倍増すると思われるが、そうでなくとも、音韻論のなんたるかを知ることのできる刺激的な本となっており、教養学部の全員に勧めることができる。165の脚注を含め約450ページとボリュームのある本ではあるが、ハンドブック的に使えるので一気読みする必要はない。とはいえ、今回「本の棚」へ記事を書くことが決まって改めて拝読したところ、どんどん読み進めて没頭してしまった。読後感は、圧巻、の一言である。

 音韻論に馴染みのない方のために解説すると、音韻論とは、人間の言語音声の文法を説明しようとするものである。言語は人間のコミュニケーション手段として非常に身近なものであるが、言語の文法事項に関して、「なぜ」そうなっているのかを俯瞰的に考える学問が言語学であり、さらに、言語のいろいろな側面の中でも音声について説明しようとするのが音韻論である。<

 ではどのように音声を説明するのだろうか? そもそも言語音は(手話を除けば)目に見えないし、連続体である。例えば「暑い」と発話したとき、調音器官(舌など)はこの語の最初から最後まで滑らかに動いていく(どう動いているか観察してみてください)。しかし、日本語母語話者は、この連続体をa-ts-u-iのように四つの音に区切れると「思って」いる。この「思って」いるというところの正体を見つけたいのが音韻論である。

 本書では、その理論的な取り組みが、各理論が出てきた背景とともに14章にわたって語られ、世界の言語学者たちが音韻のあらゆる側面を説明しようとしてきた歴史が、現在第一線で活躍している音韻論者たちによって綴られている。本書は特に生成音韻論(generative phonol­ogy)に焦点をあてる。生成音韻論は、それまでの音韻論の進展および限界を受けて始まり、現在に至るまで五十~六十年くらいの歴史があるが、本書の構想の発端である田中伸一教授の還暦と関係していると本書「あとがき」にある。つまり、Noam ChomskyとMorris Halle著で一九六八年に出版されたThe Sound Pattern of Englishという、生成音韻論の出発点とも言える節目から約五十~六十年を語ってみるという試みが本書である。

 さらに、「生成音韻論」の「生成」とは何かというと、「言語の意味のもとになる表象から実際の音声形となる表象への写像」(p. 1)と定義されている。数学的な写像を考えると分かりやすいかもしれないが、限られた(=有限の)文法ルールから無限の文法的な文を生むためのメカニズムである。生成音韻論では、そのメカニズムの特に音に関する側面を理論化しようとするわけである。それまでの音韻論は「生成」とは呼ばれていないわけで、本書を読むと、ではそれまではどうだったのだろうかという探究心も生まれるだろう。

 本書の14章を読み終わると、この約六十年間で音の文法としてさまざまなモデルが提唱され目まぐるしい発展と言語記述の進展がなされてきたことがわかる。各章では、今後の展望にも触れられており、それぞれのモデルにおいて今でも論じられる重要な論点も紹介されている。紙面の都合上各章の詳細に触れられないが、ぜひ実際にお読みいただきたい。

 14章の後に続くのは、生成音韻論のこれからを語った座談会の収録である。議論は、形式理論からのアプローチと実験を中心としたアプローチの変遷から始まり、音の音声実質は音韻の中にはないというsubstance-free phonologyという見解や、さらに言語学一般としても、言語に内在するのは併合(merge)という操作のみであるという考え方に触れ、これから音韻論がどうなっていくのかを考えている。最後は一つの明るい未来で締めくくられているが、ぜひ本書を手に取ってその未来を共有していただきたい。

 本書の編纂にあたっては、田中教授ご自身が積極的に関わっていらっしゃり、さらに、構想を練るところから編集作業など最後まで、田中先生の教え子達が携わっている。彼らは、この駒場の言語情報科学専攻で田中先生のゼミをとり、ここから羽ばたいて現在は各大学で教鞭をとりながら音韻論の研究者として活躍している面々である。中身の詰まった本であると同時に、心のこもった本である。

(言語情報科学/英語)

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