HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報667号(2025年11月 4日)

教養学部報

第667号 外部公開

<本の棚> 土屋和代 著『福祉権運動のアメリカ ブラック・ラディカリズムとフェミニズム』

速水淑子

image667-02-2.jpg 巨大な富、巨大な貧困、極度の格差を抱えるアメリカにおいて、貧困に苦しむ人々が、福祉権という思想をどのように練り上げ、戦い、何を成し遂げたのか。本書は一九六〇~七〇年代のアメリカで、公的扶助受給者とその支援者が牽引した全米福祉権団体(NWRO)の活動の軌跡を追う。

 アメリカ憲法には生存権や社会権の明文規定がなく、福祉政策は立法や行政の裁量に大きく委ねられている。社会保険から外れた人々への福祉は脆弱で、その中心はひとり親家庭への扶助だった。制度制定時の主な対象は夫と死別した白人女性だったが、有色女性や未婚・離婚・遺棄家庭へと対象が拡大するにつれ、「未婚で、就労せず、自堕落で性的に奔放な福祉依存のシングルマザー」という差別的イメージが作られた。人種・階級・ジェンダー差別が重なるインターセクショナルな権力関係のもと、黒人シングルマザー受給者は中傷や侮蔑に晒された。資格要件の厳格化、不十分な給付、私生活の監視、低賃金労働の強制など、受給者は屈辱的で懲罰的な扱いを受け続けた。

 六〇年代、北西部の大都市ゲットーを中心に差別と貧困に抗議する黒人の運動が続くなか、扶助対象者の待遇改善を求める活動が始まる。著者はこの運動を「受給者自身の、日々の生活から紡ぎ出された〈声〉と、その〈声〉を届けるための運動」(八頁)と捉え、収集した貴重な一次史料に基づき、その〈声〉を丹念に辿っていく。叙述の中心に置かれるのは、黒人シングルマザーで活動の中心を担ったジョニー・ティルモンの功績であるが、それ以外にも、活動に加わった多くの黒人女性の声に光が当てられる。なかでも、第一章で紹介される受給者の投稿詩と、各章のエピグラフに引用される言葉は必読である。

 貧困に苦しむ当事者を中心とした本書の記述からは、マジョリティの主張が、いかにグロテスクな欲望に結びついていたかもみえてくる。六〇~七〇年代には、受給者に職業訓練と就労を義務付けるワークフェアの思想が広まった。「貧困層」に就労機会を提供するかにみえるこの政策は、実際には福祉費削減の手段であり、貧しい黒人を半強制的に低賃金かつ不安定な職につかせるもので、奴隷制度の延長といえた。ワークフェアは家庭内の育児・家事を賃金労働と同等に評価しない点で、女性差別的でもあった。さらに、女性の労働市場進出を促すフェミニズムの影で、白人中産上流階級の家事を貧しい有色女性に低賃金で肩代わりさせるという人種・階級差別的側面も持つ。福祉費削減とケア労働の軽視は、子供が増えても扶助額を据え置く措置や強制不妊手術に繋がり、女性の性と生殖を管理する制度を生んだ。

 怠惰と不道徳のレッテルを貼られ、不十分な給付しか受けられず、低賃金で辛い仕事を強いられ、身体を管理され、子供を養うこともできない。そのような状況を前に、福祉権運動は「十分な収入、尊厳、正義、民主主義」を掲げ、施しではなく権利として所得保証を求め、十分な賃金を得られる職と就労教育、託児や教育環境、性と生殖の自己決定の実現を訴えた。

 政治哲学者ロールズは『正義論』(一九七一)で、最も不利な人々への配慮を正義の原理として提示した。彼は、事後救済としての再分配政策が世代をまたぐ貧困を容認しかねない点を批判し、すべての人が自立し社会協働に参画できるよう、事前の財の配分と社会経済構造の変革を訴えた。黒人シングルマザーらの主張は、こうした公正な社会の構想にケア労働の観点を加えた点で、さらに革新的なものであったといえよう。福祉権運動には、生活に必要な給付を無条件に求める生存権の主張と、市民としての地位と尊厳を保つための職と役割の提供という社会的シティズンシップの主張がともに含まれている。無条件で十分な所得保証によって、貧しい人々が(ケア労働を含めた)職を選べるようになり、結果として労働環境が底上げされるという構想は、今日でも強い訴求力を持つ。

 八〇年代の新自由主義的経済政策のもとで、福祉権運動は強烈なバックラッシュに晒され、公的扶助は削減され厳格化された。著者は、今も続く脱福祉国家化と刑罰国家化の関連を強調する。有色の人々と低所得者層の福祉を切り捨て、大量投獄で社会の周縁に追いやる─こうした暴力の継続への抗議として、今日のBLM運動があることも、本書は教えてくれる。

(地域文化研究/ドイツ語)

第667号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報