HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報667号(2025年11月 4日)

教養学部報

第667号 外部公開

<本の棚> 國分功一郎 著『手段からの解放―シリーズ哲学講話―』

王欽

「手段からの解放」から目的の序列へ

image667-02-3.jpg 國分功一郎の『手段からの解放』の鍵概念は、手段でも解放でもなく、享受である。國分によると、日本語の「嗜好品」が享受の特性を示してくれる。英語にうまく翻訳できないこの言葉は、人々の栄養摂取に関わらない食べ物へのこだわりを形づくる。一方、ドイツ語の「Genussmit­tel」がたまたま「嗜好品」にあたっており、さらに哲学者のカント(Immanuel Kant)は嗜好品を分析してもいる。すると、本書の議論は早い段階でカント読解へと移行していく。

 國分はカントにおける「四つの快の対象」を解明した上で、直接に満足を与える「享受の快」に着目する。それは、「唯一、目的からも合目的性からも自由な快である」(八〇頁)からである。享受が手段に変わるや否や、我々は快適なものが与えてくれる快を失ってしまう。人間の生存それ自体も「目的―手段」関係に含まれてしまえば、生活は「快を剥がれた生」になるのである。

 本書においては承認欲求も、快適な生活も、苦痛からの逃避も、すべてが「目的」になる。そして、ある目的のために行動する限り、我々は「それらの目的に駆り立てられ、目的にとって有用なものを手段と見なす」(九五頁)ようになる。それに対して、「嗜好品を楽しんでいる時、我々は少しも何かに駆り立てられたりしない。ただ享受の快のうちに留まっている」(九五頁)。「嗜好品」が栄養摂取などの「目的」に関わらないから、人々に純粋な享受を与えてくれる、というわけである。例えば、

食事は目的が達成されたからおいしいのではないのです。食事は目的達成のために手段として有用だから美味しいのではありません。(一八四頁)

 確かに、食べ物が美味しいかどうかを判断する場合、我々はそれを手段として捉えてはいない。しかし、例えば飢えている人間なら、普段うまいと思われないご飯さえ、まさに「目的達成のための手段」となるせいで、格別においしく食べられるかもしれない。ここで、目の前にあるご飯を「手段」と捉えることと、それを単純に「享受」することは厳密に区別できないのみならず、「手段―目的」と「享受」の境目そのものが不在なのである。

 そもそも、「手段―目的」に関わらない享受を強調しようとするなら、わざわざカントを経由する必要があるのだろうか。けれども、カントについての考察こそ、本書に消費社会批判の一般論をこえる射程を与えると思う。國分は次のように書いている。

何が道徳的で何が道徳的ではないかが人間には分かっています。(中略)カントはこのあるべき姿を人間にとっての「目的」と言いました。(一五六~一五七頁)

 カントにおいて、これは人間性そのものについての措定にほかならない。人間は理性の目的に沿って生きねばならぬ。では、道徳的目的に適合する快も「手段―目的」関係から解放しなければならないのか。

 この点について、國分の解釈は曖昧である。彼は「目的という語の二つの意味が問題になります」(一八〇頁)と明言しながらも、次のようにこの問題性を解消しようとする。

人間の目的を既に知っている理性は、享受のためだけに生きている人間の生き方には納得しない。つまり、我々はそのような生き方に納得できない。(一五七~一五八頁)

 けれども、承認欲求も満腹も、目的としてはカントのいう理性に適う目的ではありえないはずだ。すると、ここで「手段からの解放」と異なる問題が浮かび上がってくる。とりあえずそれを「目的の序列」と呼んでおこう。例えば、國分は次のように書いている。

健康を理性によって目的へと差し向けてこれを善いものとすることの是非は置いておくとして、指摘したいのはこういうことです。健康はそもそもは直接に快適なものでした。(一九〇頁)

 健康が目的となる場合、人々は結局生活を手段へと変えていく羽目になる。しかし、カントはむしろ全く異なる問題を提起していると思う。國分の議論と違ってカントが強調しているのは、「目的」としての健康ではなく、「手段」としての健康にほかならないからだ。人間はただ健康的に生きていればいいわけがなく、さらに高い目的を目指して生きていかねばならぬ、ということである。

 むろん、これはもはや現代社会で維持できない意見になっているのだ。カントが措定している目的は、われわれの常識でなくなって久しい。國分もこのジレンマに気づいている。

快適なものに関しては、各人はそれぞれに固有の趣味をもつという原則が妥当するのだった。文化産業によって危機に晒されたのは、この原則ではなかろうか。(一〇六頁)

 人々が同じ判断を下していながらも、そこに普遍性がない。文化工業が齎してきた「趣味の標準化」は、「感性の養い方」に深刻な影響を与え、我々の感性を「産業に奉仕するように一様に定め」てしまう事態(一六二頁)を招来するのである。このような時代を生きている人々にとって、難しいことは「目的」から解放するというより、むしろ「目的」に序列をつけることだろう。

(地域文化研究/中国語)

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