HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報669号(2026年1月 6日)

教養学部報

第669号 外部公開

<駒場をあとに> 教えて、書いて、楽しんで

谷垣真理子

image669-02-1.jpg わたしは一九九七年の香港返還の翌年に駒場に赴任した。わたしの香港研究は、小学校六年の時に観たブルース・リーの『燃えよドラゴン』から始まる。香港でも香港研究が体を成していなかった時代に卒業論文を書いた。

 駒場の学生は優秀で、それまでの研究蓄積はあっという間に吸収された。それだからこそ、「教えること」と「(論文を)書くこと」はきちんとやりたかった。そして、夢にも思わなかったポストに就いたのだから、駒場生活を楽しみたいと思った。

 わたしの時代、中国語を習う人は、中国文学や中国哲学、東洋史を志していた人か、帰国子女で横文字はもうイヤな人、ヨソで第二外国語で独仏語を学び、駒場では横文字を回避したい人たちだった。アジア科の中国語の授業では「(文革時の)四人組」と聞いただけで、みんなが興奮していた時代であった。だから「チャイチャイ」と学べる(はずの)「チャイ語」の授業は未経験で、どのように教えるか難問であった。たどりついたのが、授業中に中華ポップスを歌うことであった。同僚の瀬地山角先生の実践に学び、その後、自分なりに工夫を重ねた。

 後期課程のアジア科/アジア・日本研究コースでは、現代香港論では関心を引くことは難しく、「中国世界」や「華僑華人論」についての授業も行った。院では、当初、指導学生は日本人学生だけであったが、二〇一〇年くらいから中国系の指導学生が増えて、現在はすべて留学生である。 わたしは博士号がなくても就職できた「最後の世代」であった。駒場に赴任してまもなく子どもを授かった時、わたしは一念発起して博士論文に取り組み、仕事と育児はいつも「共倒れ寸前」であった。

 博士論文と並行して、わたしは研究対象を香港から、中国大陸と台湾、マカオへと広げた。二〇一〇年代にはふたつの科研に関わった。日本の華南研究者を集結させたプロジェクトは、日本華南学会の創立につながり、二〇一四年の『変容する華南と華人ネットワークの現在』で地域研究コンソーシアム研究企画賞を受賞した。もうひとつの科研では、日本における中国研究の発展に取り組み、『戦後日本の中国研究と中国認識―東大駒場と内外の視点』(二〇一八年)が出版された。

 後者の科研の終わりにはサプライズがあった。台湾大学政治学系の石之瑜先生を駒場に招聘した縁で、彼の「世界の中国研究の比較研究プロジェクト」で、香港の中国研究者への聞き取りを任された。その後、英語で発表する機会が増え、今までに英語の共編著二冊、Springerから単独編著でJapan and Asia(二〇二二年)を出版した。Springer本の日本警察によるインドネシア国家警察の改革の「お手伝い」についての論考は、人間の安全保障プログラムに関わったこと抜きでは考えられない。

 わたしは駒場の時間を笑って過ごせただろうか。子どもを保育園に預けたことで、わたしの駒場ライフは豊かになった。駒場の一二郎池(現・駒場池)の脇にある保育園の園児は、毎日グラウンドから野球場の端までをお散歩する。わが子のおかげで園児たちが駒場の「いたどり」を好きだということを知った。子どもを連れて行ったAIKOM(現USTEP)の研修旅行も楽しい思い出である。

 総合研究棟管理委員会では二回委員長をやり、入退館登録を直近の数年間担当したが、育休明けから参加した環境委員会も、居心地のよい委員会であった。保育園のお散歩コースでの釘の散らばりを報告したことで、わたしは「委員長が必要と認める者」か「専攻選出」のどちらかの枠でずっと委員として参加した。 二〇一五年の教授昇進後には、委員長として駒場の植栽計画に取り組んだ。野球グラウンドとラグビー場の間の桜並木の桜は染井吉野で寿命は六十年。一九六四年のオリンピックの際に、駒場のグラウンドをアスリートの練習場として開放したことから、東京都から桜を寄贈された。寿命のつきそうな桜の管理が必要だったが、伐採には教授会で抵抗感が強く、環境委員会は植栽管理計画を作成した。これは三年がかりの作業となり、委員はもちろん、施設係や駒場の植木の管理を行う造園業者にも協力してもらい、全学のキャンパス計画室会議で百年先まで見据えた計画を承認してもらった。

 振り返れば、後期課程で卒論指導したのは九名ほど。院では外国人研究生を十七名、修士課程で十七名、博士課程で十名を指導し、今年の三月までに修士論文十五本と、博士論文四本の主査となる。新型コロナウイルス感染時期にはオンライン・ハイブリッド授業のグッドプラクティス総長表彰をいただき、わたしの中国語の授業で「可」の学生が外務省でチャイナスクールの一員として活躍している。

 泣きたいくらいしんどい時も、「これは許せない!」と憤った時もあったが、一切合財含めてわたしは駒場を楽しみつくした。自分が卒業したアジア科の創立五十周年を祝う会も、学部入学から九年半暮らした白金学寮の廃寮記念会もお世話できた。

 育児や介護と看護を言い訳にはできないが、わたしはまだ単著を書いていない。これは定年後五年間の自主サバティカルで補いたい。四月からは、きょうだいの看護で大分にちょくちょく帰省するが、家庭人としての時間も増やし、食卓にはもう少し手をかけたものを出したい。

 皆さま、これまで長い間おつきあいいただき、本当にありがとうございました!

(地域文化研究/中国語)

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