HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報670号(2026年2月 2日)

教養学部報

第670号 外部公開

<送る言葉> 池上高志先生をおくる

澤井 哲

 池上高志先生(池上さんと呼ばせていただきます)が定年退職を迎える日が来るとは、月日の流れの速さにただ驚くばかりである。

 池上さんが追求する、「生命の起源」問題は、コード化された世界の内側でさらにコード化された秩序がいかに生まれ、進化しうるのか、という問いである。物理の世界は、なぜかわからないが発展方程式に支配されている。まるで宇宙そのものが、機械仕掛けのようにオートマタとしてコード化されているかのようだ。その中に誕生した私たちを含めた生物は遺伝子コードによって規定されたミームである。"Life as it could be"とし計算機内に生まれる人工生命(ALife)や、計算する存在である人工知能が計算からいかに生まれるのかという問題は、生物の普遍性を理解する上で避けて通れない。

 池上さんは、理学部物理学科の鈴木増雄先生のもとで学位を取得されたのち、神戸大学、 オランダ・ユトレヒト大学の滞在を経て、駒場を拠点にして、この壮大な複雑系研究、ALife研究を牽引してこられた。私が大学院生のころ、駒場ではKISSセミナー(金子邦彦、池上高志、佐々真一の頭文字)なるセミナーシリーズが開催されていた。他大学にいた自分には憧れであり、その自由闊達な学術精神は私たちの世代に強く刻み込まれることとなった。池上さんの印象はとにかく自由人であること、そしてケンカに強そうなお兄ちゃん(これは実際に強い可能性があり、伝説もある)ということである。さらに、お父様も物理学者であったり、話せば武満徹など現代音楽やアートへの造詣の深さも伝わってきたりと(その後、音楽家の渋谷慶一郎さんとのコラボなどアートにも活動を展開され、最近では万博で「生命進化の樹」を監修されたのが記憶に新しい)、とにかく凡人の自分にはそのサラブレッド感がただただ眩しかった。池上さんの研究の自由奔放さに当時憧れるも、「ピカソも最初は精密なデッサンをしていたよな」と、自分に言い聞かせたのを覚えている(残念ながら自分はそのままデッサンばかり続けて今にいたる)。

 池上さんの研究は、大きく三つの柱から成り立っている。一つは、大きな群のシミュレーション研究にみられるように、大規模な力学系や、セルオートマトンから自律的でかつ可塑的な特徴がいかに出現し、進化するかについての研究。もう一つは、自走する油滴やアンドロイドなど、アナログ性や身体性に根差した振る舞いの探求。そして三つ目がアートへの接近である。これらの研究は、生物らしさが生まれる仕組みを断片的ながらも教えてくれた。そして大規模言語モデルの出現もあり、これら三つの柱が今まさに融合しつつある。池上さんが長年追求してきたテーマの重要性に、世間もようやく気づき始めた。ウェブも交通も貨幣も、社会のあらゆる側面が人工生命化していく中で、その先の人類を待ち受けるものは何だろうか。この荒波の中、池上さんがご退職されることに、残された私たちは、まるで着の身着のままで放り出されるような心細さを覚えずにいられない。

(相関基礎科学/物理)

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