教養学部報
第670号 ![]()
<本の棚> 河合祥一郎 訳『新訳 冬物語/シンベリン』
アルヴィ宮本なほ子
シェイクスピアの声が立ち上がる新訳
河合祥一郎訳『新訳 冬物語/シンベリン』は、「新訳」シェイクスピア・シリーズの最新巻であり、初めて一冊に二つの作品、しかも、シェイクスピア晩年の「ロマンス劇」の代表作二作が収録された豪華版である。原題のThe Winter's Taleとは、劇中で薄幸の幼い王子マミリアスが口にするように、冬の夜に読まれる、あるいは語られる空想的な娯楽物語であるが、(「冬の夜話/夜語り」ではなく)小田島訳以来の「冬物語」というモダンなタイトルは、錯綜し混乱する人間の心理の有様を前景化する。しかし、この枠組みがあるからこそ、人間のどうしようもない「情念」が引き起こす悲劇的な事態に耐え続ける老若男女の登場人物たちは、死で終わる悲劇からロマンス劇へと生き延び、『冬物語』では動き出す石像によって、ブリテン王の名をタイトルとする『シンベリン』ではジュピターの降臨というスペクタクルを経て、最後に大団円を迎える。
浜の真砂は尽きるとも坪内逍遥以来尽きないシェイクスピアの翻訳の中で、河合版シェイクスピアの「新訳」を輝かせる最大の特徴は、『新訳 十二夜』以降、英語の押韻(ライム)をすべて、日本語でも聞こえる形で表現しようとする徹底ぶりである。韻文と散文で構成されるシェイクスピアの作品の韻文には、行の終わりが無韻(弱強五歩格のブランク・ヴァース)の場合と押韻する場合がある。「新訳」では、反復音、行末の母音や言い回しの連鎖などで英語のリズムを日本語のリズムと響きに入れる様々な工夫を凝らすだけでなく、英語の押韻を☆、★、◇、◆などの記号によって可視化し、日本語でシェイクスピアを「読む」ことから「聞く」ことへと反転させる足場をたてる。『冬物語』では擬人化された「時」の十六回繰り返される二行連句(十六年の歳月を示す)、ごろつきオートリカスが交互韻で歌う春の歌、『シンベリン』では「ヒバリの歌」などが美しく響き渡り、読者は陶然とするだろう。
英語の押韻を日本語のリズムに移した台詞について、頁の下を埋め尽くしている脚注が、音韻の変化や、行が分割されハーフラインで間髪を入れずに登場人物が言葉を畳みかけることの劇的効果などを丁寧に説明し、さらに読者の観賞を深め、舞台で上演するためのテクストの演劇性を実感できるようになっている(ので読み飛ばさない方がよい)。『シンベリン』では、二行連句が場の締めくくりに使われることはもとより、二回使われる過剰さが実は着替えの時間を計算に入れてある可能性や、韻律の乱れが感情の乱れを表現する演劇的効果──二行連句に収まりきらないポスチュマスの怒り、ポスチュマスの名を口にして韻が消失してしまうイノジェンの動揺ぶり──など数々のことを読者は教えられる。註を読んで訳に戻ることが、登場人物たちの声を「読む」のではなく「聞く」ことになり、読者に舞台の上の人物たちの表情、姿、振る舞いが鮮やかに見えてくる。読者はシェイクスピアの劇場へと連れて行かれる。すごい。
日本語での上演を徹底的に意識した台詞が美しいリズムを刻み、朗々と響き渡るのは、訳者河合祥一郎(敬称略)が、優れた演劇人であり、かつシェイクスピア研究の第一人者であることが大きい。「新訳」の磨き抜かれた台詞には、現代の学術的校訂版の多くが無視している丸括弧が挿入的な語句をトーンを落として発声するための演出記号として残され、註には言葉遊びの解説や先行文献の批評だけでなく、すべての単語をOEDで引いたのではないかと思わせる語釈があり、息をつめて頁を繰りながら、その背後の膨大な研鑽を思って気が遠くなりそうになった。
「訳者あとがき」も必読である。シェイクスピア晩年の「ロマンス劇」の特徴、悲劇を乗り越えるために「赦す」こと──『シンベリン』ではヤーキモーを赦すポスチュマスからシンベリンが「赦す」ことを学ぶ──へとつながる積極的な「信じる心」の大切さ、『冬物語』を『オセロー』の「セカンド・チャンス」とするグリーンブラッド的な読み方、「アフェクション=affection」に「情念」という訳語を選ぶ新解釈など、作品を新たに照らす論点が多い。ただし、まず、新訳の創意に満ちた台詞を読み、註に導かれて、シェイクスピアの世界を覗き見よう。豊饒な世界が新しく眼の前に広がる。その感動は大きい。
(地域文化研究/英語)
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