教養学部報
第670号 ![]()
<駒場をあとに> 変わりゆくもの 変わらないもの
簑口友紀
数学者の飯高茂氏のエッセイ『いいたかないけど数学者なのだ』には、氏の駒場時代の印象的なシーンがある。それは、複素空間で正則な関数はコレコレであるとかいった簡単なことなのだが、それを友人同士で話し合っていると、傍に立って静かに聞いている人(S君)がいて、大変丁寧な態度で尋ねるのである 「今お話になっていたことは、私の知らないことばかりです、どうしたらそのようなことを勉強出来るのでしょうか。教えてください」 僕はこの件を読むと、胸が痛いような悲しいような気持ちになる。そこには、自分の知らないことについての謙虚な憧れと、それに真っ直ぐ向かおうとする情熱がある。実際、そうしたシーンは、僕自身も教員の立場で、そこここに感じて来た。ああ、えらいなあ、素晴らしいなあ、そう思いながら僕は駒場に居たのである。一、二年生ばかりではない。大学院生たちもとても偉く、その独立独歩ぶりに、大学院手当を放棄したくなるほどであった。(実際、着任した当初は、毎週土曜日には手当分、院生たちにスパゲティをおごっていたものだ。)
平成元年に物理教室(当時は大学院重点化されてなく、教養学部物理教室という名前だった)に助手として着任した当時は、教室は風通しがよく、自由な雰囲気のある職場だった。理論の助手は何をしてもよく、ひとつの研究室を運営する気持ちでやりなさいと言われただけだった。その代わりお金はなく、研究棟もボロボロで、採用審査の面接を受けた建物はすきま風の吹くプレハブだった。運営費はひとり年十万円しかないので何も買えなかったが、前年まで学振特別研究員というものに採用されていたので、その予算でワークステーションの本体だけ買えた。それだけだと動かすことは出来ないのでハードディスクを買ったのだが、200MBで十六万円もした。仕方ないので六万円は自腹である。今のようにスタートアップ予算もないので、就職一年目の国際会議は自腹であった。よりにもよって、ポンドの高い時代のイギリスだったので、ボーナスが全部なくなった。当時、院生たちは全体的に怒っていたが、この予算のなさも原因の一つだっただろう。ただ、大変楽しかった。理論、実験の垣根を越え、また理論内でも物性、原子核、素粒子の垣根を越えて、大勢でスキーに行ったり、海水浴やハイキングも楽しんだりした。今は研究室単位での行動が主のようだが、当時はそうではなかった。人が少なかったのかもしれない。
若い人は外国でポスドクをしてくることを奨励されたので、僕もイリノイ大学のレゲットのところへ行くことになった。一年働くつもりが、二年来れますか、というので二年行くことになった。そういう時代だったのである。我々の一つ上の世代は、もっと自由だったようである。その時の勉強や人同士のつながりは大きな財産となり、超流動ヘリウムを舞台とした一次相転移の理論はこの滞在がきっかけとなった。イリノイ大学には非線形物理で名高い大野克嗣さんもおられ、金子邦彦さんに紹介してもらって会いに行った。机に置いてつつくと、なぜか一方向に回り出す棒のおもちゃを見せられ、理由を説明せよと言われたので少し考えてみた。これは、今考えるとファインマンラチェットに似たものを考えていたのだが、はっきりとした形にはならなかった。これは非平衡の現象だったのである。僕の後にイリノイに来た佐々真一さんも大野さんから同じ謎を掛けられたのだと思う。彼は定常状態熱力学(SST)という枠組みで、非平衡物理のその後を担って行った。
イリノイへは結婚式を挙げて三日目に渡航したおかげで、いろんな人から長い新婚旅行だろうと冷やかされたが、そんなことはなかった。彼の地では娘が生まれ、金子さんご夫妻からネコの着ぐるみを贈っていただいたので、娘に着せて写真を撮って送った。その娘も最近物理で学位を取り、佐々さんの薫陶を大いに受けて、今は本郷の物理専攻で技官をしている。なんと時代は流れることよ。
駒場には美しい四季があり、そのひとつひとつが忘れ難い。一二郎池や梅園を歩いたり、ルヴェソンヴェール裏のブッシュを強行したり、4号館の非常階段に座り込んで桑の実を食べたりした。研究室からは桜の木を隔てて野球場が見え、春などは学生たちのかけ声をバックにピンクの花が揺れる。秋は銀杏の落葉で黄色い絨毯が出来、その上で催される駒祭は華やかなものだ。特に保健センター周辺の紅葉はひと際美しく、これを日常として見ていた日々はなんと贅沢な時だったろう。
先日もある学生が研究室の扉を叩き、物理を勉強したいと相談に来た。何をやりたいのだろう、と聞くと、全部ですと言うではないか。気持ちはわかる、何をやっても面白いもんなあ、と返しておく。そうして、やはり胸の痛くなるほどのうれしさを感じるのである。定年は、こうした日常からのお別れを意味する。それはきっと寂しいものだろう。が、その向こうに控えている「この世からの」退場は真に恐ろしい。父は七十八で他界した。待ったなしだと思うと、定年は単なる警告のひとつに過ぎない気がする。
(相関基礎科学/物理)
無断での転載、転用、複写を禁じます。

