教養学部報
第670号 ![]()
<駒場をあとに> 「はぐれ者」としてのささやかな企み
宇佐美洋
四月、新入生へのオリエンテーションの際には「専攻所属教員の自己紹介」のコーナーがあり、私はここでいつもはたと困ってしまう。同じ専攻の親愛なる同僚教員の皆さんは、「専門は統語論です」とか、「◯◯時代のイギリス文学です」とか、専門分野を簡潔に表現する単語ないしフレーズをお持ちなのだけれど、私にはそのような便利な表現がない。
もともとアカデミックなキャリアの出発点は言語学であったのだが、言語そのものの研究には早々に見切りをつけてしまった。言語を使用する「人」に着目する言語教育という分野に活路を見出そうとしたけれど、しかし非母語話者に対し、母語話者が持っている規範通りに言語システムを使いこなせるように求める「無言の圧力」にはなんとも言えない違和感もあった。結局、同じ日本語母語話者であっても実際の言語使用について有している規範は実に多様である、ということに気づき、そうした多様性の実態を描き出すとともに、異なる規範を持つ者同士がなんとか一緒にやっていけるようにするためには、教育においてどういう働きかけをするのがよいか、というようなことを考えるようになっていったのだが、それって「日本語教育」と呼ぶのも「社会言語学」と呼ぶのも収まりが悪い。
最近ではすっかり開き直ってしまって、オリエンテーションのときには「自分は言語情報科学専攻の〝はぐれ者〟である。言語学を学ぼうと思ってこの専攻に来たけれど、なんかちょっと違う、と思ってしまった人はぜひ声をかけて」という自己紹介をすることにしている。まあ真面目に言語学に取り組んでいる方々に対してはなんとも失礼な話ではあるのだが、こういうはぐれ者にもちゃんと居場所を与えていただけた、というのは非常にありがたいことである。またこうしたはぐれ者からの働きかけに応え、予想もしなかった方向へと成長し、教員にも刺激を与えてくれている学生と多数出会えたことは、駒場で働くことの大きなよろこびであった。
しかしそれなのに、定年まで五年を残し、さらには学内で様々な責任ある用務が回ってきそうな年回りになって、なぜいま他の大学に異動するのか、という問い(ことによると白眼視)に、私としてはなにがしかの応答をせねばならないと思う。それはひとことで言うと、「これからのそう長くない人生を、人と直接接しながら、しかしできるだけ広い範囲で社会に対しても影響を与えうる仕事として、駒場では直接関わることができなかった〝教師教育〟という分野に取り組んでいきたいと考えたから」、ということになる。
ここ数か月、日本国内で顕著となってきた排外主義的な言説の広がりには愕然とせざるを得ないのだが、不安に基づくこうした情念の広がりに対しては、論理のみに基づく「べき論」は何の納得にもつながらない。ではどうすればよいか。即効性のある処方箋があるわけではないが、ひとつの方法として考えられることは、「私たち、同じだよね」と思っている、その「同じ」の意味を、ほんのちょっとだけずらすような企みをしてみることであろう。
率直なところ私自身は、「日本人」とか「日本語母語話者」というものを均質的な存在として想定すること自体がもはやちょっと信じられない。「日本人」としてくくられる人々が、現実の言語使用場面において示す評価(価値判断)がいかに多様であるか、ということを、これまでの研究活動の中で見てしまっているからである。そして多様である、ということは、だから分かり合えない、ということを意味するわけではない。多様性の中にも通底する共通性に着目することによる相互理解は可能であるだろうし、その「通底する共通性」とは、決して「日本人」の間にだけ存在しているわけでもない。
そうした気づきは、伝えようと思って伝えられるものではなく、複数の人々との対話の場のなかで、自ら発見していってもらうしかない。私としては、そのような気づきを促すためにどのような仕掛けが有効か、ということを考え、教育上の試行錯誤を行ってきた。
一方で、私自身が設定する場に巻き込んでいける人の数には限りがある。私が蒔いた種を拾い、自分なりに育て、それをまた別の場で広く蒔いていってくれるような人が現れてくれれば。そのように考えたときに、教師教育、つまり「人を育てる人を育てる」という営為が、私にとって非常に意義あるものと感じられたのである。
「あるタスクを設定し、それに基づく対話を促すことで、学び手は教師側が想定した以上の成果を得ていってくれる」という、楽観性というか、人の成長に対する基本的信頼感を得ることができたのは、駒場で十年余教育活動に関わることで私が得た最も大きな財産であるように思う。現在の日本を覆いつつある排外主義に立ち向かうことは決してたやすいことではなかろうが、しかし教育とは楽観的でなければやっていけない。想定した通りには進まず、頭を抱えるようなときにも、私は東大で得た基本的信頼感をもとに、「うーむそうきたか、それではどうしてくれよう」と、懲りずに次の工夫を繰り出そうとしていくような気がしている。
(言語情報科学/日本語)
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