HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報670号(2026年2月 2日)

教養学部報

第670号 外部公開

2025年ノーベル物理学賞とその発展

野口篤史

 二〇二五年、ノーベル物理学賞がジョン・クラーク氏、ミシェル・デボレ氏、ジョン・マルティニス氏の三名に与えられました。受賞内容は「電気回路における巨視的な量子力学的トンネル効果とエネルギーの量子化の発見」です。本稿では、その内容を解説するとともに、この発見が現代の技術にどのようにつながっているかを説明したいと思います。

 両端で固定されて引っ張られた弦を想像してください。弦をはじくと、いくつかの音が同時に鳴ります。ですが、それらの音は互いに適当な音ではなくて、その周波数が2倍、3倍......というとびとびの値をもっています。さて話は変わって、原子の話です。原子の中では、電子が飛び回っています。二十世紀初頭、物理学者は水素原子が出す光は、弦の倍音と同じように、とびとびの波長しかもてないことを発見しました。この振る舞いは、のちの量子力学の誕生により、原子の中にいる電子のエネルギーがとびとびの値になる、つまり「エネルギーの量子化(離散化)」によって説明されました。二〇二五年は量子力学ができて、百周年の記念の年。世界中で様々な量子イベントが行われた年でした。

 電子や原子といった個々の粒子の振る舞いは、位置と運動量という物理量の変化によって考えることができます。さらに量子力学では、波動関数と呼ばれる、量子がどこにいるかという情報を波のように取り扱って、それが伝搬したり干渉したりすることで、物理量が変化する様子を取り扱います。本受賞テーマを説明するために、エネルギーの離散化について、もう少し説明しておきます。電子という小さな世界の住人において、自由に飛んでいる場合、そのエネルギーが離散化することはありません。しかし一方、両端が固定された弦のように、電子を空間に閉じ込めることで、そのエネルギーが離散化するようになります。とくに、小さな領域に閉じ込めれば閉じ込めるほど、エネルギーは大きく離散化されるようになります。これは、短い長さで張られた弦が高い音(つまり高い周波数)を奏で、倍音との周波数差も大きくなることと対応しています。原子の中では、電子は原子核からのクーロン力で引っ張られていて、非常に小さい領域に閉じ込められています。この結果として、エネルギーの大きな離散化が起きています。

 量子力学が発見されて以来、電子や原子、光など、実に様々なものの振る舞いが量子力学で説明されています。こうした微視的で小さな世界で成り立つ量子力学は、巨視的で自由度の大きい世界でも成り立つでしょうか。アンソニー・レゲット氏はこうした問いへ答えることができる実験として、超伝導体を使った実験を一九八〇年に提案しました。超伝導体の中では、多数の電子の集団が、あたかも一つの量子として波動関数をもっていて、この波動関数の「位相」が、超伝導体を表す物理量となります。この、超伝導の中の膨大な数の電子全体によって定義される「位相」という物理量は、一つの電子の位置と同じように量子力学的に取り扱うことができるのでしょうか。「位相」が、超伝導体の中にあるどれか一つの電子(もしくは二つの電子からなるクーパー対)がもつ物理量ではないことが重要です。超伝導体の巨視的な数の電子全体がもっている巨視的な自由度を、微視的な運動量と同じように取り扱うことができるかはまったく自明ではありません。

 こうした動機の元で、わずか一年後の一九八一年には、IBMトーマス・ワトソン研究所のリチャード・ウェッブ氏が巨視的量子トンネル効果を実験的に発見しました。これは、電子が量子トンネル効果によって異なる位置にトンネルするのと同じように、巨視的な自由度である「位相」においても、たしかに量子力学が成り立っていて、量子トンネル効果が起きることを明らかにしたものです。小さな世界を記述する量子力学は、熱などのノイズやエネルギーの散逸が十分に小さい限りにおいては、巨視的な世界でもまた成り立っているということが分かった初めての瞬間でした。

 ジョン・クラーク氏は当時、カリフォルニア大学バークレー校で研究室を率いていて、その研究室でそれぞれ博士研究員、博士学生であったのがミシェル・デボレ氏とジョン・マルティニス氏です。彼らはIBMトーマス・ワトソン研究所の巨視的量子トンネル効果の研究をさらに推し進めました。原子のエネルギーの離散化が、電子の閉じ込めから生じていたように、彼らは超伝導の「位相」を閉じ込めることができる回路を利用しました。ここで活躍するのが、巨視的量子トンネル効果の研究でも用いられたジョセフソン接合と呼ばれる素子です。ジョセフソン接合は、二つの超伝導体で薄い絶縁体をサンドイッチした構造で、ジョセフソン効果と呼ばれる、二つの超伝導体の位相差に比例した電流が流れる性質があります⑴。原子核と電子の間のクーロン力が原子核と電子を近づけようとするように、ジョセフソン効果は二つの超伝導体の位相差を小さくしようとします。その結果、「位相」を閉じ込めることができて、エネルギーの離散化が生じます。一九八五年、彼らはジョセフソン接合からなる回路を作製し、その周波数応答を観測することで、このエネルギーの離散化を観測することに成功しました。

 量子力学では、こうしたトンネル効果やエネルギーの離散化だけでなく、他にも重ね合わせ状態や量子もつれといった性質があり、近年ではそれらの性質を利用した量子コンピュータや量子センサーといった様々な量子技術の研究がされるようになっています。本稿で取り扱った超伝導体の「位相」を用いた技術でも、一九九九年にはNEC研究所の中村泰信氏、蔡兆申氏らによって量子重ね合わせ状態が観測されて初めて量子ビットとして確立されました。その後二〇〇六年にはカリフォルニア大学サンタバーバラ校にうつったジョン・マルティニス氏が率いる研究室によって量子もつれが生成されました。こうした技術をもとに、現代では世界中で超伝導量子コンピュータの開発が進み、研究が次々に進んでいます。多くの量子ビットからなる大規模な量子状態を駆使して計算を行う量子コンピュータは、巨視的な量子システムと言えます。膨大な数の電子が織りなす巨視的な自由度である「位相」が作る量子ビットが構成する巨視的な量子システム。個人的には、「ずいぶん器用なことをしているな」と思いながら研究をしています。

⑴    この効果を導出したブライアン・ジョセフソンも一九七三年のノーベル物理学賞を受賞しています。

(相関基礎科学/先進科学)

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