教養学部報
第671号 ![]()
妄想のなかのサントリー学芸賞
鶴見太郎
三度目の正直か、三本の矢か─。このたび、思いがけず、というか、妄想のなかでの期待のとおり、サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を授与されることになった。拙著『ユダヤ人の歴史』(中公新書)を「中心として」という形であり、藤原辰史氏による選評のなかで前二著『ロシア・シオニズムの想像力』(東京大学出版会)と『イスラエルの起源』(講談社)に言及していただいたから、三作を総合して授与されたと理解することもできる。
サントリー学芸賞の存在を初めて知ったのは、学部一年生ぐらいのときに夢中で読んだ小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社)のオビに受賞作である旨書かれているのを目にした際だった。本学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻相関社会科学分野に提出された修士論文がもとになった本である。それまで大学院に進んだり、研究者になったりすることなど考えたこともなかった私が研究者を志すようになったきっかけになったのが、この本だった。歴史(ともすると黒歴史)の背景にある論理やその複雑さに淡々と迫っていく筆致に惹かれ、自分もこのような研究をしてみたいと思った。大学院の進学先としても小熊氏を追うことになり、サントリー学芸賞にも淡い憧れを持つようになった。
『ロシア・シオニズムの想像力』は、同大学院に提出した博士論文がもとになったものである。ホロコースト以前のユダヤ人口の中心であったロシア帝国から、なぜシオニズムが生まれたのかを歴史社会学的に分析した。実は論文執筆時からサントリー学芸賞を狙っていた。といっても、学芸賞向けに内容を調整するというわけではない。面白い学術書や学術書寄りの教養書に同賞が授与されることは他の受賞作を見ても明らかだったので、とにかく素材の魅力をめいっぱい引き出しながら完成度を高めることだけに専心した。
しかし、晴れて本として出版された年の秋、黒電話の前で正座して待ち続けるも、受賞の知らせはついぞ訪れなかった。
八年後、博士論文の続編的な研究をまとめた『イスラエルの起源』を上梓した。ロシア帝国が崩壊する時期において、シオニストを含むユダヤ・ナショナリストがどのように自己を変容させ、その変化がイスラエルの礎を用意したのかに迫った。心理学のモデルも使いながら、なかなかオリジナルな議論ができたのではないかとの手ごたえはあった。ゆえに、今度こそ当選だろうと連絡を心待ちにした。が、黒電話が鳴ることはなかった。
この悔しさを胸に秘め、三度目の正直としてその五年後の二〇二五年一月に『ユダヤ人の歴史』を世に問うた。二五年度はサバティカルで、夏からイスラエルに滞在していたため、知らせはまず、電話で伝えたいことがあるから番号を教えてほしいというメールに始まった。時期からしても受賞の知らせに違いないと思った。こちらの番号を伝え、かけていただいた電話に私が発した一言目は「ありがとうございます」だった。もちろん、わざわざイスラエルまで電話していただきありがとうございますという意味だったが、まだ先方が何も用件を伝えていない段階でのフライングと受け止められたかもしれない。もっとも、受賞の連絡に違いないと思ったからこそ電話に対する感謝がこもったともいえるので、同じことだったか。
電話を切った後、これも妄想のなかでシミュレーションしていたとおり、デストラーデ(注・一九九〇年代前半に西武で活躍したキューバ出身のスラッガー)がホームランを打った際に見せていた空手風ガッツポーズを、人知れず決めた。
嬉しかったのは、「『ユダヤ人の歴史』を中心として」という但し書きだった。前二著も完全に選に漏れていたわけではなく、累積して今回の受賞を後押ししたという意味で、三度目の正直というより、三本の矢だったのである。
以上で何が言いたいかというと、長い道のりである研究という営みにおいて日々モチベーションを保つうえでの妄想の役割と、その妄想を支えてくれる賞の存在のありがたさである。もちろん、賞を得るために研究しているわけではない。ただ、研究は、大きな目標に向かって日々コツコツと積み重ねていった先でしか成就しない。その長い期間、いかに自分をおだて続けるかが大事なのだ。
妄想は自由である。客観的に見て、私が受賞にふさわしいか、自信はない。しかし、受賞をイメージしながら神経を研ぎ澄ませて書くぶんには、誰にも迷惑をかけない。
ちなみに、『ユダヤ人の歴史』は概説書寄りの本であったため、受賞しない可能性もあると妄想のなかでさえ思っており、次の矢も準備していた。奇しくも受賞者発表と同じ一一月に刊行された『シオニズム』(岩波新書)である。私自身の研究成果がさらに詰まった私のなかでの大本命だったので、受賞を逃したのが不憫でならない。
今後は、いずれ創設されるに違いないノーベル歴史社会学賞受賞に向け、日々の研鑽に励みたい。
(地域文化研究/国際関係)
無断での転載、転用、複写を禁じます。

