教養学部報
第671号 ![]()
サントリー学芸賞を受賞して
細川瑠璃
このたびサントリー学芸賞(芸術・文学部門)に選ばれた『フロレンスキイ論』は、二十世紀初頭のロシアで活躍した思想家にして科学者であり、同時に聖職者でもあったパーヴェル・フロレンスキイの思想と生涯を、一冊の書物にまとめたものである。この簡潔なプロフィールからも窺えるように、フロレンスキイの思想においては、科学的知と信仰とがせめぎ合い、時に融合しながら、一つの美へと向かう急流を成している。私はそれを、人間の営みの根本的なあり方の一例としてきわめて興味深いものと感じ、修士課程以来、現在に至るまでフロレンスキイ研究を続けてきた。本書の出版と今回の受賞を通じて、その面白さを多くの方々と共有できるようになったことを心から嬉しく思う。
今回の受賞後、フロレンスキイという、ロシア思想や文化を専門とする研究者でなければ、その名を耳にする機会もほとんどないであろう人物について(もっとも、日本語版Wikipediaの項目はかなり以前から存在しており、X(旧Twitter)には日本語訳の語録も存在するようである。いずれも私が作成したものではない)、なぜ研究するに至ったのかを問われることが多くなった。そこでこの場を借りて、その経緯を記しておきたい。
私がフロレンスキイをはっきりと意識するようになったのは、駒場でロシア・東欧コースに在籍し、卒業論文を執筆していた頃である。当時私は、ロシアの画家ミハイル・ヴルーベリの絵画を題材に卒論を書いていたのだが、中間発表か口頭試問の折に、西中村浩先生から「美術のことをやるならフロレンスキイくらい読まないと」と言われ、なるほどそういうものかと思った。フロレンスキイは優れた美術論をいくつも残しており、美は彼にとって中心的な問題であった。結局、卒論には間に合わなかったものの、修士課程に進んでから彼の文章を読み始めた私は、すっかりその面白さに取り憑かれ、研究対象をフロレンスキイへと移してしまった。
このエピソードは、教員の何気ない、当人はおそらく覚えてもいないような一言が、学生のその後を大きく左右しうることを示しており、今や教員となった私にとっては、折に触れて思い起こすべき教訓ともなっている。しかし、私がフロレンスキイに惹かれた背景には、もう少し必然めいたものもあった。
子どもの頃、私は科学者になりたかった。中学や高校の同級生たちは、将来私が科学者になるものと思っており、後に私がロシアの研究をしていると知って、意外そうな、時に残念そうな反応を示したことも一度や二度ではない。もっとも、紆余曲折を経て人文学の道に進んだ後も、科学的な好奇心は常に私の内にあり続けてきた。おそらくはそれが私とフロレンスキイの共通点の一つであって、そのことがフロレンスキイの文章を読みやすいものにしてくれている。
科学者を志していた人間がふらっとロシアに関心を持ってしまったきっかけは、ライナー・マリア・リルケの詩を愛していたことにある。改めて書くまでもないと思われるが、リルケはドイツ語圏の詩人であり、ルー・ザロメに連れられてロシアを旅して以降(あるいはそれ以前から)、彼の詩にはロシア的な信仰への憧れが遠く響くようになる。ボリス・パステルナークやマリーナ・ツヴェターエワといったロシアの詩人たちとの往復書簡もよく知られている。リルケの魂を深く引き寄せ続けたロシアという地と、そこに生きる人々の信仰に、私自身も触れてみたいと思った。そうしたわけで、入学時の第二外国語としてロシア語を選ぶことになったのだが、私にとってロシアへの関心と、ロシアにおけるキリスト教の信仰、さらにその背後にある思想への関心とは、当初から分かちがたく結びついていた。リルケの足跡を辿って一度ロシアに寄り道をし、いずれはドイツ語圏へ戻るつもりでいたはずが、いつの間にかロシアに長居してしまい、どうやら当分はこの地を離れられそうにないのだが、ともかく当初はこのような構想を抱いていたのである。私の知る限り、フロレンスキイとリルケの間に直接の交流はなかったが、フロレンスキイが語り、ロシア革命を経てもなお守ろうとした信仰のあり方は、リルケがロシアで探し求めていたものと、どこかで重なり合っているように感じられる。こうして幼少期からの関心を振り返ってみると、いずれにせよ、どこかの時点で私はフロレンスキイに出会うことになっていただろうと思う。
私の研究に対して時折向けられる文理融合、学際的といった言葉は、一瞬聞こえはよいが、その内実はこのような収拾のつかない関心であった。だが、こうした雑多な関心のありように、何とか居場所を与えることができたのは、駒場の寛容な気風のおかげに他ならない。私は任期の定められた立場にあり、いずれは駒場を去らねばならないのだが、駒場にいる間に一定の成果を残せたことを大変嬉しく思っている。
(国際社会科学/社会・社会思想史)
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