教養学部報
第671号 ![]()
ナンシー・フレイザー先生と一緒に勉強した日々
國分功一郎
二〇二五年の秋、ジェンダー理論・批判理論の研究で世界的に知られる米ニュースクール大名誉教授のナンシー・フレイザー先生を駒場にお招きし、四週間にわたって授業をしていただいた。招聘のきっかけは二年前に起こった、とある事件だった。
ナンシー先生はイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に抗議する書簡に署名していた。二〇二三年一一月、ナンシー先生はドイツのケルン大学から招聘されており、出発の準備まで整えていたのだが、その書簡が公開されるや同大学から「招聘しない」との連絡を受けることになる。
このニュースは世界中の、特に思想・哲学に関心を持つ研究者たちに即座に共有された。駒場で哲学を教えている斎藤幸平先生と私は当時、ドイツでいまおかしなことが起こっていると話をしていた。
その直後であったろうか、なんと、ちょうど我々二人が所属するセクションに、海外研究者招聘権の順番が回ってきた。斎藤先生はいつもの気楽な口調で、「ナンシー先生、呼んじゃいましょうか?」と私に声をかけた。
大事なことは意外と気楽に即座に決まるものだ。もちろんOKである。そしてナンシー先生からは即座に「Yes, count me in!」という返事をいただいた。
私はこの招聘はそれ自体がメッセージであって、東京大学の政治的な立場を世界的に訴えるものにもなりうると思っていた。そのためにも絶対に成功させる必要があると気合いを入れていたが、とにかく書類が大変であった。斎藤先生が頑張ってくれたが、二人でなければ到底できなかっただろう。また、住居の準備が大変であった。これについてもたくさん書きたいことがあるが、海外から研究者を招聘するための施設をもう少し充実させてもらいたいという大学当局への注文だけはここに記しておきたい。
授業は邦訳もある『Cannibal Capitalism』(「共喰い資本主義」の意。邦訳は『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ちくま新書刊。新入生は絶対に読むこと!)と、執筆中の近著『労働の三つの顔』(仮題)についてのレクチャーである。間に学生の発表時間を入れたとはいえ、朝十時から暗くなるまでナンシー先生は熱弁を振るわれた。年齢の話をしたら失礼になるのかもしれないが、そのタフさに驚いた。「お疲れになりませんか」と尋ねたところ、「授業をしている間は知的に興奮しているから疲れを感じないのよ!」と仰っていた。とにかく気持ちのいい方だ。
斎藤先生と私はずっと招聘の準備にかかりきりであった。だからナンシー先生の到着後は「よかった......。住処も何とかなった......」と安堵しているばかりであった。ふと、二人はあることに気づいた。せっかく来てもらっているのに、授業をしてもらうだけではもったいないのではないか。
急いで記者に連絡を取ってインタビューをしてもらった(「共食い資本主義論で読む女性首相 『99%のためのフェミニズムを』」。朝日新聞二〇二五年一一月一二日。今でもネットで読むことができるのでぜひ検索して読んでもらいたい。なお、インタビューしてくれた記者の高久潤さんは駒場の相関社会科学出身)。
「やはりあの人に連絡を取るべきだ」と意を決し、上野千鶴子さんに連絡。フェミニズム、ジェンダー理論の分野において、別の国で活躍されてきた、ほぼ同年齢の二人の対談が実現した(『新潮』に掲載予定。上野さんが素敵な布製のバッグをお土産にご持参されたのが大変印象的であった)。
『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』の解説者白井聡さんをお呼びし、NHK文化センターで一般向けの講演会も開くことができた。現代資本主義をテーマとする講演会だというのに、対面・オンラインを含めて実に多くの方々がご参加くださった。そのことに感激したし、希望を持つこともできた。
授業だけでなく、大学キャンパスの外でもナンシー先生、そして一緒に来日されたパートナーで歴史家のイーライ・ザレツキーさんと長時間にわたって交流できたのは私にとって実に貴重な経験であった。
ナンシーさんもイーライさんも一九六〇年代の反ベトナム運動からずっと様々な社会運動を目にし、またそれにかかわってきている。その中で彼らはやはり辛い経験もしている。過去の政治運動についての私的な会話の中でのナンシー先生が発した一言、「We made so many mistakes」、あの「mistakes」という単語が私には忘れられない。あの優雅で優しい批判的知性の背後には、透徹した認識と徹底した研究だけでなく、経験があるのだ。この一言を聞いた瞬間、私は、自分が一ヶ月ほど、ナンシー先生と一緒に勉強しながら感じていたことを言葉で解説されたような気持ちになった。
実際に人に会うとは、必ずしも言葉では語られぬその人の経験を、知らぬ間に受け取ることであろう。授業に参加してくれた学生たちは何をナンシー先生から受け取っただろうか。内容は忘れてしまっても(いや、覚えていてほしいが)、授業に参加したという経験だけはずっと彼らの中に残り続けるに違いない。
今回の招聘にあたって多くの方々に助けられた。特に、進んでアテンドをしてくれた学生たちには心からの感謝の意を表したい。
(写真は最後の授業の後に教室で撮ったもの。斎藤先生はその週、海外出張で不在。)
(超域文化科学/哲学・科学史)
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