HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報673号(2026年6月 1日)

教養学部報

第673号 外部公開

「無」の世界にいるときに脳の中で起こっていること

大泉匡史

 夜、目を閉じて眠りに落ちる。眠りに落ちている間、あなたは何かを感じているか? 眠りの途中で夢を見ることもあるだろう。夢を見ている間は、起きている時と同じような「主観的な体験」がある。一方、夢を見ていない時は主観的な体験がなくなる。「無」の世界だ。この「無」の世界にいる時、私たちの脳の中では何が起こっているのだろうか?

 私たちが主観的に何も感じていない「無」の世界にいる時も、脳の中では神経細胞がせわしなく活動していることが知られている。神経細胞が全く活動しなくなる状況は「死」の時である。寝ている時は、それとは全く異なり、一見、起きている時と区別がつかない位、神経細胞は活動を続けている。それでは一体、なぜ私たちは「何も感じない」、すなわち意識がなくなってしまうのであろうか?

 実はそれがなぜかは未だに十分に明らかになっていない。覚醒時に比べて神経活動の頻度は減少するものの、外界の刺激に対する応答性を失ったわけではなく、音、匂いや触覚の情報は大脳皮質に伝わり、神経細胞を活動させるのである。神経細胞が活動するのに、なぜそれが「意識」にのぼらないのか、その詳細な条件に関して現代の神経科学でも十分には分かっていない。

image673-1-2.png その謎を明らかにするには、起きている時、寝ている時の神経活動をなるべく詳細に記録できるようにならなければならない。脳の広範囲にわたって、神経細胞一つ一つの活動を高解像度かつ高速に撮像する。この目的のために、今回紹介する研究を共同で行った理研の村山正宜チームは世界最高峰の顕微鏡を開発した。百聞は一見にしかず。ぜひ読者の方は、村山チームが記録した実際の動画をQRコードで読み取って見ていただきたい。

 私が初めてこの顕微鏡で撮った神経活動を見せていただいた時は、そこに広がる幻想的な光景に言葉を失った。この一つ一つの光の点滅が神経細胞一つ一つの電気的な活動に他ならない。山の上で見る星空のように、ただただ時を忘れて眺めていたくなるような光景である。この一つ一つの神経活動の瞬きが、私たちが感じていること、考えていることの全てを作り出していると思うと感慨深い。覚醒時と睡眠時を比較した動画を見ていただければ、睡眠中であっても、神経活動が止むことなく続いている様が見て取れる。

 さて、この顕微鏡で記録された約1万個の神経細胞の活動をどのように解析すれば良いだろう? ここで少し断っておくと、私自身は脳の実験を行う研究者ではなく、こうして得られた神経活動のデータを数理的な理論に基づいて解析することで、意識の謎に迫ろうとしている立場である。このデータを上手く活用できれば、覚醒中や睡眠中の意識の有無の違いに関して、ミクロなレベルでの新たな理解が得られるかもしれない。これまでもfMRI(機能的磁気共鳴画像法)やEEG(脳波)といったマクロなレベルでの脳活動計測によって意識の有無に伴う違いは調べられてきたが、そこで見えるのはあくまで脳全体の大まかな変化にすぎなかった。

 そこで私たちが行ったのが「ネットワーク解析」である。一つ一つの神経細胞を点、似た活動を示す神経細胞同士を線でつなぐことで、脳全体を巨大なネットワークとして描き直す。そのうえで強く結びついた神経細胞の集団(サブネットワーク)を取り出すと、覚醒時に比べ睡眠時や麻酔時にはサブネットワーク同士のつながりが弱まり、それぞれがより独立した「島」のように分離していく傾向があることが分かった。

 ここで強調しておきたいのは、睡眠だけでなく麻酔も並べて調べたことの意味である。どちらも「意識がない」状態だが、睡眠が脳の自発的な産物であるのに対し、麻酔は薬物によって外から強制的に引き起こされるものであり、その成り立ちは全く異なる。両者に共通するネットワークの特徴を取り出すことができたことは大きな意義がある。

 今回の結果は、私が専門とする「意識の統合情報理論」と呼ばれる理論でも予測されていたこと、すなわち意識にとって情報の統合が必要条件であるという予測とも整合的である。意識がなくなる時、脳のネットワークが複数のサブネットワークへと分離してしまうということは、まさに脳内で情報の統合が弱まっていることを示唆しているからである。

 興味深いことに、ミクロなレベルでネットワークの分離傾向は確かに見られたものの、その変化は予想したほど大きくはなかった。脳全体が劇的に組み換わるのではなく、あくまで「少し分離が進む」程度の違いにとどまっていたのである。思えば、睡眠も麻酔も可逆的な現象だ。朝になれば自然に目が覚め、手術が終われば麻酔から醒める。もし毎晩、脳のネットワークが大きく組み換えられてしまうならば、こうした速やかな復帰は難しいだろう。ネットワークの分離傾向がほどほどにとどまるという今回の発見は、意識が行き来できることの神経的な基盤と関係しているのかもしれない。

 今回の解析はあくまで出発点にすぎず、1万個もの神経細胞の時系列データには、まだ引き出しきれていない可能性が眠っていると感じている。実験データは全て公開されており、誰でも自由にダウンロードして解析できる。近年のAIの急速な発展により、高度な解析を行うことは比較的容易になった。ただし大切なのは、AIを使う側が、良い問いを立てること、正しく道具を活用するための数理的なセンスを磨くことだと思う。脳計測はここ十年来、非常に大きく進歩しているが、脳の全貌は未だ明らかとはほど遠い。私自身は意識という謎に、今後も共同研究者と共に挑み続けていきたい。

(広域システム科学/物理)

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