教養学部報
第673号 ![]()
<本の棚> ジャック・デリダ 著、西山雄二・佐藤嘉幸・郷原佳以・佐藤朋子・工藤顕太 訳『ジャック・デリダ講義録 死刑Ⅱ』
原 和之
もう三〇年以上前のことになるが、フランスの大学に留学して驚いたことの一つに講義の形式があった。教員が手元の紙を見ながら理路整然と語る文章を、学生の方は一字一句違えず書き取ってゆく。私も見様見まねで試みたが、判読不能な筆跡が残るばかりで、これは大変なところへ来てしまった、と途方に暮れたものだった。
M・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』で、こうした習慣が中世の大学で写本を読み上げる形で講義が行われ、教室での書写を通してその内容が流通していた時代に遡るとする。活版印刷術の普及により、そうした複製装置としての役割は薄れていったものの、「本のように話す(parler comme un livre)」ことが「学識ある話し方」として尊重される伝統が広く形成されてゆくなかで、詳細な講義ノートであれ草稿であれ、教員が書かれたものを読み上げて、学生はこれを書きとめるという講義形式は長く続くことになった。そしてその結果、我々にとっては幸運なことに、フランスの高等教育機関における講義はしばしば(いずれの側によってであれ)書かれた形で残っている。私が専門とするフランス現代思想の分野も例外ではなく、主要な著者についてはその講義録が次々と刊行・翻訳されて、それぞれの分野を活気づけている。
さて世紀の変わる一九九九年から二〇〇一年にかけての二年間にわたり哲学者ジャック・デリダが行った講義の二年目を収めた本書『死刑Ⅱ』は、そうした講義録の波のなかでも際立った波頭の一つをなすもののように思われる。デリダの講義のうち一部はその原稿を基にした書籍が出版されているが(八~九頁)、この『死刑』については書籍・論文化されておらず、ここで初めて公刊されたものだ(三一七頁)。しかし本書の興味はそうした外形的な理由とは別のところにある。「死刑」はかならずしも哲学の伝統的な主題ではないし、その選択は一九八一年のフランスにおける死刑廃止から二〇年というタイミングによって外的に動機づけられているようにも見える。しかしデリダは、「いかなる哲学体系もそれとして死刑を排除あるいは糾弾しえなかった、あるいはするつもりがなかったという事実」に注目し、「何が今日に至るまで、哲学そのものを、原理において死刑判決の側につくよう余儀なくさせている」のかと問うことで、社会や制度の問題として括られることの多いこの問題を、一気に哲学という営みの核心へと引き入れる(四二~四三頁)。「死刑」の問題は、哲学が対象としうる数ある問題のうちの一つにとどまらず、そこで哲学が自身の不可能なものと出会い、その限界と輪郭が露呈するような問題として位置づけられる。そしてそれがデリダ自身にとっても無関心ではいられない問題であるとすれば、それはまさに「その点に、「脱構築」と呼ばれるものの賭金が存する」からに他ならない(四三頁)。
こうして単に社会的な重要問題であるというだけでなく、すぐれて「哲学」そのもののありようを問いに附すものとして、さらにはデリダ自身の哲学的企ての賭金として再設定された「死刑」の問題をめぐって展開される本書の議論では、『人倫の形而上学』のカントを、他のさまざまな著者(ベンヤミンやシュミット、レヴィナスといった哲学者以外にも言語学者のバンヴェニスト、カフカ、さらにはフロイト、ロベスピエール等々)を援用しつつ検討する中で、その問題の焦点として「同害刑」の原則、すなわち「眼には眼を、歯には歯を」というかたちで罪と罰とを釣り合わせようとする考え方が浮上してくる。そこからそもそも等価性の前提となる「計算可能性」の問題が、ハイデガーの『根拠律』を手掛かりに論じられる一方で、精神分析の知見に基づいて同害刑で通常想定される罪と罰の順序を逆転させ、罪責感が「犯罪の結果ではなく、正反対にその動機」(二二〇頁)であるとしたフロイトの弟子テオドール・ライクの死刑批判が対置されて、そこで可能になる「精神分析革命のような何か」をとおして法権利や政治、倫理の「根本的な原理にまで変革がもたらされる」ことが期待される(一六七頁)。ただ当然ながら、本書の魅力はここで示したような大まかな概略で尽くせるものではない。二〇一七年に刊行された本講義第一巻の翻訳『死刑Ⅰ』(高桑和巳訳、白水社)とあわせた講義全体の見通しをまず得たいという向きには、二〇一八年刊行の『デリダと死刑を考える』(高桑和巳編著、白水社)に本書の訳者の一人でもある郷原佳以先生による詳細な解説があるので、ぜひそちらも参照されたい。
(地域文化研究/フランス語・イタリア語)
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