HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報674号(2026年7月 1日)

教養学部報

第674号 外部公開

『ノーベル賞論文に見る生命科学研究の思考法』刊行によせて

道上達男、阿部光知、末次憲之、坪井貴司

image674-1-2.jpg ノーベル賞の発表シーズンになると、受賞者の人柄や生い立ちを伝えるニュースが連日流れます。研究内容そのものは、難しいからと説明を省略されたまま終わることも多く、生命科学と社会の距離はなかなか縮まりません。

 大学の教室でも、似たことが起きています。近年、理系学生の間では「生物離れ」が進んでいると言われます。物理や化学に比べ、生物は「覚える科目」という印象が根強く、生命現象の奥に流れる原理の面白さが理解されにくい現状です。

 生物系の学部学生の多くは、三〜四年次に研究室へと配属されます。そこで待っているのは、原著論文との初対面です。実習や講義で学んできた生物学は、いわば舗装された道を歩く経験です。しかし原著論文は、まだ地図のない場所に踏み込んだ研究者たちの記録です。慣れない英語、見慣れない図表、文脈の分からない議論。学生が戸惑うのは必然です。

 ただ、その戸惑いを克服した向こう側に、研究の本当の面白さがあるのです。論文に描かれた一枚のグラフは、誰かが問いを立て、仮説を組み立て、実験を重ねた末にようやく得た答えです。その道筋が一つの線として見えた時、データは単なる数字や図形ではなく、思考の軌跡として姿を現します。本書は、その感覚を一人でも多くの学生に届けたいという思いから生まれました。

 本書の編者は、教養学部前期課程で生命科学関連の講義を担当している四名です。道上(発生学)、阿部(植物発生遺伝学)、末次(植物光生物学)、坪井(生理学・神経科学)が、それぞれの専門を背景に本書の編集を担いました。さらに執筆陣として、この四名に加え、新井宗仁教授(生物物理学)、北西卓磨准教授(神経科学)、瀬尾秀宗講師(抗体工学)、谷崎祐太准教授(分子生理学)、晝間敬教授(植物病理学)、渡辺雄一郎名誉教授(分子生物学)の各氏を迎えました。執筆者の全員が駒場の生命科学関連の講義を担当してきた教員です。

 本書は「分子」「細胞」「個体」「病気」という四章から成り、各章に三つの項目が設けられています。各項目ではノーベル賞を受賞した研究を取り上げ、当時の背景や、中心となる実験データ、その後の研究への影響や意義を解説しています。各章にはコラムも収録され、駒場でノーベル生理学・医学賞の受賞のきっかけとなるオートファジーの発見をなされた大隅良典特別栄誉教授の研究についても取り上げています。

 この四章構造には、生命科学の現在地点を俯瞰してもらうという意図があります。分子の挙動を追うミクロな問いから、個体や疾患を対象とするマクロな問いまで、生命科学のスケールは幅広いものです。どこから何を見ているのかが分からないまま論文を読もうとすると、情報は入ってきても文脈や座標が定まりません。本書の四章構造は、その「位置の感覚」を養うためのものでもあります。

 本書で取り上げた研究を眺めると、ノーベル賞という同じ到達点に至るまでの経路が、実に多様であることに気づきます。多くの研究者による積み重ねの上に立った発見、一人の研究者が長年かけて切り開いた突破口、師弟や複数の研究者が力を合わせた共同作業。その多様性は、「革新的な研究にはこういうパターンがある」という単純な図式ではないことが分かります。本書はそれらの経緯と背景もあわせて伝えることで、研究という営みの奥行きを感じていただけるようになっています。

 研究室に配属されたばかりの学生にとって、本書は論文を読むためのサポーターになるでしょう。目の前のデータが何を語っているのか、この実験はなぜ必要だったのか。そうした問いへの手がかりが、本書の中にあります。すでに研究に取り組んでいる大学院生には、自分の問いを広い生命科学の分野の中に改めて位置付ける機会として活用していただけると思います。また、生命科学と間接的に関わる医療職や教育者にとっても、現代生命科学の知的背景を整理する一冊になるでしょう。

 本書が、どのような入り口から入る読者にとっても、生命科学研究の面白さや、研究という営みをより身近に感じるための一助となれば幸いです。

(生命環境科学/生物)

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