教養学部報
第674号 ![]()
銀杏並木と魚子垣
田村 隆
二〇二六年三月十日、春の雪が降る中、この日の朝から駒場Ⅰキャンパスの銀杏並木の剪定が始まった。施設チームによれば、前回行った大がかりな剪定は二〇〇九年度から二〇一一年度にかけて三期に分けて実施されたようで、第一期から数えれば十七年ぶりとなる。その際の記録もふまえ、なるべく自然樹形を生かす形で施工の富士植木さんに工夫していただいた。枝が短くなった分、空が少し広くなったように感じられた。駒場Ⅰキャンパスの植栽管理計画によれば銀杏並木は重要樹木群に該当するため、審議手続きも研究科の環境委員会、キャンパス計画室植栽管理部会、キャンパス計画室会議の三段階を経た。
駒場Ⅰキャンパス内は原則として車両の入構・駐車が禁止されている。銀杏等の根元に駐車すると樹木を痛めてしまう可能性があることも理由の一つと聞く。そこで数年前に車止めとして構内に設置されることになったのが写真のような竹製の魚子垣である。難読だが、「ななこがき」と訓む。その更新時期にあたり、山中湖のマメザクラの件(本紙第六四七号参照)でもお世話になった伊豆の樹芸研究所の齋藤暖生所長から、田無の演習林の竹を分けてもらってはどうかとの提案をいただいた。演習林の栗田直明氏が親切に御対応下さり、昨年十二月十五日に田無に伺ったところ、間伐予定のモウソウチクを約二十本切り出して下さった。貴重な資源を提供いただいた田無演習林の各位に深謝申し上げる。
この「竹取」物語(実話)を通して改めて気づかされたのは田無の演習林と駒場の縁の深さである。まだ駒場に農学部があって、あのハチ公も生きていた頃、一九二九(昭和四)年に田無苗圃として開設された。『武蔵野に大学の森をたずねて~東京大学田無試験地の八十年~』(二〇一〇年三月)に「駒場からの移植樹木」という頁があるが、一九三四年五月には駒場の農場から六十三種七十八本の樹木が田無に移植されたという。翌年に農学部と一高のキャンパス交換を控えていた。移植樹のうちアベマキは残念ながら枯れてしまったそうだが、シリブカガシは田無に今もあり、ドングリを拾ってきた。駒場のテニスコート前の苗圃に植えてあるので芽が出るだろう。
卒業式の翌日、三月二十六日はあいにくの雨となったが、後藤晋田無演習林長をはじめ教職員六名の方が駒場Ⅰキャンパスに来訪された。目的の一つは魚子垣、もう一つは「里帰り桜」の観察である。
演習林発行の『科学の森ニュース』第四十二号(二〇〇八年六月)には、「ソメイヨシノ後継樹が駒場キャンパスに里帰り」という記事が載る。「この度、二〇〇四~二〇〇五年にさし木で増殖した後継苗の第一陣が晴れて里帰りを果たすこととなり、去る二〇〇八年三月六日に八本が駒場寮跡地に建設されたコミュニケーション・プラザ周辺などに植栽されました」とある。それが成長した姿と思われるソメイヨシノが駒場図書館東側、一二郎池手前に少なくとも五本は残る。前原忠氏に教示いただいた当時の記録によれば、伐採前の駒場寮跡のソメイヨシノから採穂され(二〇〇三年調査時の樹木番号で八八八~九〇八。古暮和歌子氏提供)、それを田無で育てて駒場に戻されたのである。
ソメイヨシノはマザクラやオオシマザクラを台木として接木で増やすという方法は私も聞き知っていて、ソメイヨシノとはそういうものだと思っていた。だが、田無演習林では約二十年前にソメイヨシノの挿木に挑戦され、駒場寮跡や北門桜並木のソメイヨシノから採穂してさまざまな条件下で育成されたという。その経過はすでに論文として発表され、オンラインで読むこともできる(坂上大翼「サクラ類栽培品種'ソメイヨシノ'の挿木増殖における挿付条件」『樹木医学研究』第二十五巻第四号、二〇二一年十月)。
挿木のソメイヨシノが田無での育成期間を含む二十年の時を経て駒場で咲く。同じクローンでも接木とは異なる、文字通り「根っからのソメイヨシノ」である。なお、先述の記事は「今後数年をかけて、十数本が北門並木に里帰りする予定です」と続くが、この第二陣については事情が変わったのか実現しなかったらしい。田無演習林に駒場由来と伝わるソメイヨシノの一角が今もあるので、それが北門桜並木から採穂されたものかもしれない。樹木番号はA一八九~二六一で、A二五八(二〇二四年度調査ではC二二六)のように母樹が並木に残るものもある。

(環境委員会委員長/超域文化科学/国文・漢文学)
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