HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報674号(2026年7月 1日)

教養学部報

第674号 外部公開

<本の棚> 三村太郎 著『天文学の誕生 イスラーム文化がもたらしたもの』

大塚 修

image674-4-1.jpg 一冊の名著の復刊を心から喜びたい。本書は、「日本はおろか、欧米でもまだない」(一七五頁)という研究環境の中で刊行されたイスラーム文化圏の天文学史の概説書『天文学の誕生─イスラーム文化の役割』(岩波書店、二〇一〇年)の増補復刊本である。著者・三村太郎はこの分野の第一人者で、未知の写本史料も含む膨大な数の文献を精緻に分析していくその研究手法が注目を集めている。

 イスラーム時代の歴史を勉強する際、必ず目にする定説がある。それは、初期イスラーム時代、アッバース朝治下のバグダードで、学術書のアラビア語への翻訳が奨励された結果、ギリシャ科学、ペルシャ科学、インド科学の成果が統合され、科学研究が大きく発展し、その成果の一部が後にラテン語に翻訳され、ラテン語世界の学問の基礎となったというものである。本書は、その科学研究の発展を、天文学知の展開を軸に、数多ある科学書の精緻な分析に基づき、最新の研究成果を反映しながら、明快に解き明かすものである。その内容は、第一章「近代科学の起源としての天文学」、第二章「ペルシャ人国家アッバース朝の成立」、第三章「アッバース朝と占星術」、第四章「最先端の天文学としてのインド天文学」、第五章「アッバース朝宮廷と論証」、第六章「アッバース朝宮廷の学者たち─宮廷の助言者として」、第七章「プトレマイオス天文学の再発見」、第八章「プトレマイオス批判からコペルニクスへ」の八つの章に加え、増補復刊のために書き下ろされた補章「ハイアの学からコペルニクス地動説へ」からなり、紀元前のギリシャ科学に始まり、コペルニクスの地動説に至るまでの天文学の展開が対象とされる。

 まず古代ギリシャについては、幾何学を論証学としてまとめたユークリッド『原論』に触れた後、プトレマイオス『アルマゲスト』について詳述し、これを、ギリシャ幾何学天文学とバビロニア計算天文学の融合の産物と評価する。この伝統は七世紀には途絶えてしまうものの、一方で、八世紀アッバース朝では、第二代マンスールが、サーサーン朝の伝統の一部を継承するため翻訳活動を奨励し、占星術を受容する、その過程で、最先端の天文学であったインド天文学への関心が高まった結果、ギリシャとインド双方の影響を受けた天文表が作成されるに至ったと説明する。その後、第七代マームーンの治世に、厳密な議論が重要視されるようになり、論証に重きを置くプトレマイオスが再発見されたとするが、アッバース朝時代に盛んであった宗教間の論駁で論証が重視されたということが、天文学に影響を与えたという説明は興味深い。しかしその際に、ギリシャ科学がそのまま受容されたわけではなく、十世紀以降、プトレマイオスが批判され、世界の仕組みの書という枠組みが重要視されるようになり、その延長線上にコペルニクスが位置付けられると結論する。補章では、原書では説明のなかったその展開について、世界の仕組みの学が十二世紀頃ヨーロッパに受容され、それをコペルニクスが探求した結果、太陽中心説に行き着くことになったと説明する。

 以上のような本書は、科学史の概説書でありながら、地域、時代、宗教を超えた知的交流の展開をダイナミックに叙述するもので、世界史の概説書としての一面も備えている。また、本書を通読し最も印象的だったのは、イスラーム科学やアラビア科学、またイスラーム天文学などという形で呼びならわされてきた対象に対して、その言葉を使わずに丁寧に叙述が進められている点である。概説書などで中東地域の事象に言及する際、「イスラーム」や「アラビア」といった言葉を頭につけて説明される事例が現在も散見される。読者は、それで何となく分かったような気になってしまうわけだが、実はそれでは何も説明されておらず、イスラームの多様性、他の文化圏との交流、また、前イスラーム時代との連続性などが捨象されてしまうことになる。イスラーム文化圏とは何か、そのことについて考える上でも深い示唆を与えてくれる一冊である。

 なお、補章は、著者・三村による近著『数学の歴史─近代科学が生まれるまで』(放送大学教育振興会、二〇二五年)に基づいており、こちらも読むと、より内容が深く理解できるであろう。併せて手に取ってもらいたい。

(地域文化研究/歴史学)

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