教養学部報
第675号 ![]()
比較文学比較文化研究が照らす世界 ──紫綬褒章を受章して──
今橋映子
一九八三年というと、もう四十年以上前のことになるでしょうか。大学四年生の夏、私は初めてフランスに短期留学し、グルノーブル大学の夏期講座に参加しました。その最後の週、「学生の集い」という自主的な催しに誘われて行くと、いつもの教室とは大違い、三百人近い外国人の若者たちが集まっていて、こんなにいたのかと驚いたわけです。舞台の上では、有志が色々な出し物を演じてくれて、とりわけベトナム人学生のプロ顔負けのパントマイムに拍手喝采。夏期講座とはいえ、かなりハードな授業日程から解放され、会場も歌や踊りで最高潮に達し、私自身も夢見心地─その瞬間でした。舞台から目を離していたわずかなすきに、舞台が二十名ほどの学生に占拠されているではありませんか。落書きをしたような旗を振り、「アメリカ帝国主義反対!」と、シュプレヒコールを挙げています。乱入者たちがどこの国籍かは分かりませんでしたが、あまりの驚きに会場の学生たちは最初身動きもできず、パーティーどころでなく自主解散に至ったのです。今から考えると暴力沙汰にならなかったことは実に幸いでした。
その時一緒に参加していた教室の友人は、配給制が続いてチョコレート一つが珍しいと話すポーランド人と、旧宗主国のイギリスに微妙な引け目を感じると話すマルタ人の二人。彼女たちの生活や人生のあり方は、東京育ちの私には想像をはるかに超えたものでした。そして気づいてみれば、そのシュプレヒコールも、友人たちとの会話も、たどたどしくてもそれはすべてフランス語を介したものだったのです。
私にとって初めてのフランス滞在は、語学の上達というよりむしろ、(二〇〇一年の同時多発テロを予見させるような)植民地問題の余波、異文化理解の難しさを日々感ずる「現場」であったと同時に、共通語さえあれば理解し合える友を世界に見いだせることを、深く知った機会にもなりました。
私立大学でフランス文学を学んでいた私は、大学院では専門を比較文学比較文化と見定めて、(この学問が日本で移入された)駒場に入学しました。グルノーブルでの鮮烈な体験は、単なる文学少女であった私を変えたようです。修士論文から博士論文にまで至る「日本人のパリ」というテーマは、間違いなくその体験がベースとなっています(『異都憧憬 日本人のパリ』柏書房、一九九三年)。
日本人にとって憧憬の都市であったパリが、一九二〇年代以降は異文化との葛藤の場になったこと、それを時代に先駆けて感知し書いたのは、高村光太郎や島崎藤村などの作家です。そして気づいてみれば、パリという〈都市〉自体が、芸術やエンターテインメントによって表象された神話的存在であったということもできます。最初、文学と美術の作品を扱っていた私は、パリ神話の解明のためには、写真というジャンルを扱わねばならないと気づいて、その研究にも挑んでいきました(『〈パリ写真〉の世紀』白水社、二〇〇三年)。対象となった写真家は、日本のみならずアメリカ、イギリス、ハンガリー、ドイツ、トランシルヴァニア(現ルーマニア)、オランダ......と自分でもびっくりするような広範囲に及んでいます。
従来的な国別縦割りの文学、芸術研究から大きく逸脱するこうしたテーマ設定と芸術ジャンルを越境する試みは、比較文学比較文化という学問だからこそ許されたものだったでしょう。比較文学が専門だと話すと、すぐさま「何と何の比較ですか?」と聞かれるのが通例なのですが、十九世紀のフランスに生まれすでに一三〇年ほどの歴史をもつこの学問は、単にそうした「比較」をするための学問ではありません。あのグルノーブルから四十年を経て、敬愛する先輩後輩数十名と共に刊行した『比較文学比較文化ハンドブック』(東京大学出版会、二〇二四年)では、現代の比較文学比較文化を「国境や言語、ジャンルなど既存のボーダーラインを問う、文学・芸術・文化の研究である」と、ついに定義し直すことができました。つまり、十九世紀にヨーロッパから世界に「普遍化」された国民国家的文化概念を、それで良いのかと問い直すのが、比較研究(Comparative Studies)の使命なのです。国境や芸術ジャンルを超えるだけでなく、一人の人間の中には複数の文化的要素が混淆していることを認めることも重要でしょう。多言語を使用する人、複数文化を往き来する人がすぐ思い浮びますが、例えば「日本人」「日本文学」がそもそも混淆された文化複合体であることに気づけば、差別や分断の感性が生まれるはずもありません。比較文学比較文化は、延いては人文系研究は、過去の言説を検証・更新し、新しい人間理解に至るための、社会に不可欠な学問でもあるのです。
パリ神話研究からはじまった私の研究は、その後、日本近代文化史から忘却されていたある一人の美術思想家(岩村透)の全貌を探る仕事へ推移しました。そこでまた、文学、美術史のみならず、政治思想史、文化経済学、アーツマネジメント、建築学等、多くの学問に分け入りその恩恵を得ながら、岩村透の全貌を描き出す「学際研究」へと発展したのです。岩村透もまた、日英のバイリンガルでありながら、そして男爵でありながら、大逆事件下の思想抑圧の時代に、日本の美術界と美術概念の再編を目論んだ志の人でした(『近代日本の美術思想』白水社、二〇二一年)。比較文学比較文化という学問の柔軟性が、ここでも最大限、私の研究の自由を保障してくれたと実感しています。
この度、令和八年春の紫綬褒章を受章し、学恩を頂いた先生方、同僚・職員の皆様、院生学生の皆さんに改めて心から感謝の意を表します。比較文学比較文化という研究教育課程が日本でそもそも最初に設置されたのは駒場であり、その意味でも感慨深く思います。実は紫綬褒章における人文系研究者(そして女性研究者)の受章の割合は、残念ながら大変に少ないゆえ、私など足許にも及ばない、我が国における人文系研究の達成の高さを、今後とも世に知らせる仕事をしていきたいと心から思っております。比較文学比較文化はその意味で、多くの人文系研究の成果を柔軟に取り込み、繋ぎ、新たに編成する学問であり、絶えずその方法を自己検証し研ぎ澄ますことを旨とするだけに、この学問への若い世代の挑戦も、心から楽しみにしています。
(超域文化科学/フランス語・イタリア語)
〇関連情報
令和8年春の紫綬褒章受章
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/honors_2026_01.html
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