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教養学部報

第675号 外部公開

<本の棚> 宇野重規・加藤晋・井上彰 編『リベラリズム 基礎からフロンティアまで』

石井 剛

image675_2-02.jpg ありがたいことに本書の書評を書くようお誘いいただいた。第一線で活躍する政治学者たちが共同で執筆したリベラリズム最新理論の詰まった一冊だ。しかしわたしは中国の哲学や思想史の研究者であって、政治理論についてはずぶの素人だ。なぜわたしに依頼があったのかは謎だが、わたしにできることはただ、中国の観点から本書を読むことだけだ。

 実は、「リベラリズム」と聞いてわたしは即座に依頼に応じたいと思った。というのも、わたしが中国の哲学と思想が好きなのは、そこに深い自由の思想が見出されるからなのだ。清朝打倒の辛亥革命から中華人民共和国誕生の社会主義革命に至るまで、中国の近代化は紛れもなく自由と解放のための闘いだった。中国における自由への希求は今日もなお変わっていないし、今後も変わらない。なぜなら、自由は少なくとも孔子の昔から中国哲学にとって中心的なテーマだからだ。わたしはその象徴を「心の欲する所に従うて矩を踰えず」にみる。それは、古典的リベラリズムの前提─人は生まれながらにして自由である─とは異なっているが、人は学ぶことを通じてこそ自由になるというリベラルアーツの理念とはぴったり重なっている。中国の哲学は、「人である」ことではなく「人になる」ことを問い求める。人は学んで人になる。その過程の最終段階、齢七十を迎えるころ、人は心の赴くままに生きられるようになる。つまり、人になるとは自由になることだ。

 ところで、パトリック・J・デニーンという米国の学者による『リベラリズムはなぜ失敗したのか』という本が話題になっている。彼はリベラリズム失敗の原因をリベラリズムが成功したことに求めている。そして、リベラリズム失敗の事例の一つとしてリベラルアーツの衰退を挙げている。自由を欲求への制約の否定と再定義したことで、自律の技法の習得こそ自由であるとする古い考えが捨て去られたからだそうだ。つまり、リベラリズムは人を自由にしないとデニーンは診断するのだ。リベラリズムがもし本当に彼の批判する通りのものであれば、教養学部の教員としては断固それを拒否するほかない。
だが、デニーンはリベラリズムの基本理解の点で、おそらく本書と立場を異にしている。本書が明らかにするリベラリズムの基調には、考え方や価値観の違う人たちが皆一律に自由を享受するべく社会的に協働することが存している。したがって自由が平等に分配されていないなら格差を補正すべきであるし、価値観が異なる人や国同士でも、合意できる点が見出されればそれを「重なり合う合意」として相互に承認すべきだ。理にかなってさえいれば人々が相互に許し合い認め合える社会は自由な社会であり、そうした社会を希求するのがリベラリズムだと本書は主張する。

 ここまで何とか理解した上で、わたしは北京で買ったばかりの中国人研究者による現代欧米政治思想史論を繙いてみた。驚くことに、彼によればトクヴィルはフランスの帝国主義的拡張を支持していたのだという。普遍的価値の過度の強調は時に文明と野蛮を進化論的に序列化し、価値の対外拡張を正当化しうるというのだ。本書でも馬路智仁さんが同様の論旨を展開している(Ⅲ─06)。なるほど、かの『文明論之概略』の著者が同時に脱亜論の提唱者であったことはこの説明によって納得がいく。だとすると、隣人を「悪友」と切り捨てるのではなく、彼らと共に成長する道をさがすことは、わたしたち─日本に足場を置いて世界をより平和で豊かなものにすべく責任を負っているすべての人々─にとって貴重なリベラリズムの学び直しの機会となり、同時にデニーンの主張する「共通の自己統治と相互教育」の実践にもなる。

 「重なり合う合意」は中国の知識人たちの間でもしばしば登場する術語だ。文明の衝突を回避して世界に新しい普遍的価値を求めていくためにはこれが必要なのだという意見を、わたしはこの二十年ほどの間幾度となく中国人の口から聞いてきた。中にはこれを「求同存異」という格言に訳す人もいる。実は、この格言は日中国交回復実現のために中国側が日本に望んだ友好の方策であった。日中関係がきしむ今だからこそ、リベラリズムにはやり直すべき価値があるのだということがこの一点からわかる。本書に凝縮された英米圏の政治理論をわたしたちの血が通ったものにするためのスタート地点はここにある。

(地域文化研究/中国語)

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