教養学部報
第675号 ![]()
「ばね屋・波屋」へようこそ
加藤雄介
渋谷川と目黒川の分水嶺に立つキャンパスの表通りには、「力屋(ちからや)」「電気屋(でんきや)」「熱屋(ねつや)」の三店が軒を並べ、朝から夕方まで開いている。店の雰囲気は互いに違うが、どの店も店先から覗くと、一説に十三間とも言われるほど、ずいぶん奥まで続いているようだ。
表通りの力屋の角を右に曲がって脇道を進むと、「ばね屋・波屋」という店がある。店先に並ぶ「ぶんぶんゴマ」や、ねじれ振り子で時を刻む機械式時計に目を惹かれ、風に揺れるレーリーすだれをくぐると、この店も思ったより奥まで続いている。光や音もこの店の商品らしい。驚いたことに、店の右手は表通りの三軒の店の奥とつながっている。中から三軒を眺めると、表から見た時には気づかなかった共通点もよく見える。左側には「量子屋」と書かれた別の店がある。「今通ってきたお店で買ったものは、この店でも役に立ちますよ」とどこからか声がする。
この「ばね屋・波屋」にあたるのが、駒場の理系学生が学ぶ振動・波動論である。今回刊行した『物理学レクチャーコース 振動・波動』は、この店の中を案内するつもりで書いた。振動や波動は、安定な状態のまわりの小さな変化として現れることが多く、自然界のさまざまな場面に顔を出す。その性質を知ることは、役に立つ振動・波動を活用し、好ましくない振動・波動を抑えたり避けたりする上で欠かせない。共鳴や干渉は精密測定の基礎にもなり、振動・波動の考え方は、物理学だけでなく化学、生物学、地学、工学にも広く現れる。
本シリーズは、物理を学ぶ幅広い学部学生に、基本的な考え方を分かりやすく伝えることを目指している。本書の中心も、振動・波動を記述する方程式がどのように得られるかを示し、それを解き、得られた解から現象を読み解くという、基本的な道筋を丁寧にたどることにある。そのため、扱う項目はやや絞った。その上で、一見別々に見える現象のつながりや、実際に見て楽しめる題材もできるだけ盛り込んだ。例えば、ねじれ振り子を出発点に、連成振動からウェーブマシンへとつながっていく見方を示したほか、ばね電話など身近な題材も取り上げた。また、コラムや付録には、本文から少し先まで考えてみたい読者向けの話題も置いた。
駒場の十三回の講義で扱う内容のうち、本書に収めなかった項目については、出版社のウェブサイトに補足資料を用意している。フーリエ変換、異種媒質間での波の透過、波動のインピーダンスなどに加え、演習問題と解答・解説も順次追加している。本書と合わせて、講義の補足や自習に活用していただければと思う。
執筆にあたっては、編集委員の小形正男先生に加え、ヨビノリたくみさんと須貝駿貴さんが編集サポーターとして原稿を読んでくださった。須貝さんには物理おもちゃを取り上げることを、ヨビノリたくみさんには少し発展的なコラムを書くことを後押ししていただき、お二人から本文の分かりにくい箇所についても有益なコメントをいただいた。
しかし、教科書を一冊の形に仕上げるには、厳しい読者が必要である。その役割を、裳華房編集部の小野達也さん、関島理湖さん、後藤三四朗さんの三名が担ってくださった。特に小野さんは私と同世代のベテラン編集者で、まるで指導教員のように精力的に、時に厳しく執筆を支えてくださった。原稿を出すたびに真っ赤になって返ってくる。「私の背後にはたくさんの読者がいると思って、分かりにくいところは分かりにくいと率直に伝えることにしています」という言葉どおり、コメントの質と量、その早さには何度も圧倒された。
執筆中の二〇二五年、大河ドラマ『べらぼう』で、山東京伝が初めて本を書いた時のことを問われ、版元の鶴屋に、ここを足せ、ここは削れと言われるまま直していったら、いつの間にか本ができていた、と振り返る場面があった。江戸の昔から、本とはそうやってできるものかもしれない。
今回の本は、裳華房(創業一七一一年頃)から刊行された。
(相関基礎科学/物理)
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