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教養学部報

第676号 外部公開

<本の棚> 劉傑・中村元哉 著『日中関係 ──敵か友か』

前田亮介

image676_2-03.jpg 本書は、一九一一年の辛亥革命から一九九二年の天皇訪中までを対象に、日本の中国観と中国の日本観をたどることで、「友」と「敵」のはざまで常に揺れ動いた日中両国の緊張緩和の条件を析出しようとするものである。その際、日本側の知中派と中国側の知日派の間で戦前から戦後に継承された一種の知的ネットワークを「人脈外交」と位置づけ、二〇世紀日中関係史におけるこの人的系譜の再評価を試みている。

 そのため本書の立場はややもすると、民間の日中友好論者の役割を重視する「友好史観」の再興にも映るかもしれない。しかし、本書では冒頭で指摘される「日中の非対称性」(一、三三頁)という初期設定が、以降も少なからず対話や相互理解を阻害するさまが活写され、友好史観よりはるかに陰翳に富む叙述となっている。二〇世紀を通じて国内での粗雑な対外観に抗して相手国を最も深く理解していた知中派・知日派の間でも、猜疑、憎悪、本音を隠すといった深刻な接続不良がしばしば生じた事実を、二人の著者は丁寧に跡づけている。「友」の要素を選別的に拾いあげるのではなく、「友」の中の振幅や曲折を再現するのである。

 本書は時系列に沿った全五章の第一節は近代日本外交史(劉)、第二節は近代中国思想史(中村)の第一人者が執筆する構成をとる。劉が知中派(「支那通」含む)外交官、中村が知日派の知識人を主役とする一方で、そのカウンターパートとなる中国の外交官、日本の知識人はあまり出てこない。これは、相手国への認識や政策がつくられる環境が日中両国で異なることをふまえた意図的な限定と読むべきであり、顧維鈞のような研究史で評価の高い外交官も相対化される点が印象的である(三二、一〇三頁)。

 内在的な中国観の持ち主が早くから生まれ、かつその知見を中国政策に反映できたのは、意外にも対外膨張を進める日本の側だった。芳沢謙吉のような中国勤務の長い外交官を軸に、アジア主義論も多様化するなど、官民で緩やかな「支那通」ネットワークが生まれたためである。在華外交官は本省と異なる現場の視点から幣原外交の不干渉主義を大陸積極関与策に導き、一九三五年には在支総領事会議を開催して広田外交の満洲国重視を是正しようと試みた。西南派など地方政権への期待も根強いものの、対中央政府交渉を重視した点で、日本の多数派だった、統一は不可能という中国認識と一線を画していた。戦後は親中派学者の中国研究が単調な言説に収斂したのと対照的に、小川平四郎ら知中派外交官の系譜が親台派の岸信介内閣を支え、一九八〇年代に歴史認識問題が噴出した際は紛争拡大の防波堤ともなったのである。

 一方、中国では日本留学組の知識人が自国の政治や社会に与える影響は限られた。当初は日本に無関心であり、その後も攻撃性を強める日本を前に、独自の日本観を鍛え上げる機会に恵まれない。だからこそ日本研究の基盤が重要だったが、辛亥革命後も日本観は「深化」せず多様性も欠いた。国家建設の即効性が重視され、内在的な日本観は政府内の民主憲政派にとどまったのである。この停滞を打破したのが満洲事変という国難であり、一党独裁体制下でも言論空間に一定の自由があったため、周作人のような「深みのある日本論」も浮上する。ただ、国難は知識人の反発も加速させ、外交部の知日派の努力にもかかわらず、日本による「文化破壊」批判に大勢が傾斜していく。冷戦期の知識人も中国共産党の公式見解に収斂し、日本研究所の設置もようやく六〇年代に進む。このか細い糸が国交正常化後に日本研究の再構築を支え、八〇年代には日本文化の研究が中国の経済発展に資するとの期待を高めた。

 こうして「友」の歴史を締めくくる本書には、その後現代にいたる相互不信への危機感が刻まれている。ただ、その姿勢が上滑りせず複雑で「豊かな日中関係史」(一九九頁)を照らしだすゆえんは、二人の著者の「歴史的雑多性」(二九五頁)への高い感度にある。冷戦後期の日中蜜月の背景たる中ソ対立が中露協調に転じ、米中接近の兆しまで見られる今日、困難な日本外交の構想力に問われるのはこの感度だろう。超大国となった中国が日本の「友」たりうるか不安を抱く読者にこそ本書の一読を勧めたい。

(国際社会科学/国際関係)

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