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平成26年度 東京大学学部入学式 教養学部長式辞

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。また、ご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。

教養学部の教職員を代表いたしまして、ひとこと歓迎のご挨拶を申し上げます。

皆さんはこれから、駒場キャンパスで最初の二年間を過ごすわけですが、そこではしばしば、「リベラルアーツ」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会があると思います。これは従来、「専門に偏らない幅広い教養」、すなわち、いわゆる「一般教養」という意味で了解され、教養学部の基本的な教育理念として、長年受け継がれてきました。

しかしながら、リベラルアーツとは、単なる一般教養の同義語ではありません。これはラテン語のartes liberales(アルテス・リベラレス)が英語に訳されたものですが、その考え方の淵源は古代ギリシアにまでさかのぼり、本来は「人を自由にする学問」を意味します。つまり「リベラル」という形容詞には「自由にする」、「解放する」という動詞的な意味がこめられているわけですが、このことはこれまであまり強調されてきませんでした。

現代人はすでに自由ではないか、だから別に解放される必要などないではないか、と思われるかもしれません。しかし、普段意識することはなくても、人間は多かれ少なかれ、さまざまな限界に囲い込まれた不自由な存在です。

では具体的に、どのような限界が存在しているのでしょうか。

第一に挙げられるのは、当然ながら「知識の限界」です。皆さんはこれまでもずいぶん多くのことを学んできたと思いますが、大学での学びに必要とされる知識は、質量ともに、高校までのそれとは比較になりません。それぞれの専門分野が前提としている基礎知識は、文系理系を問わず膨大なものですし、外国語に関しても、グローバル化時代を生き抜くためには、英語を含めた複数の言語を自由に使いこなす能力が要求されます。

また、そもそも世の中にはいったいどんな学問分野があるのか、そこではどんな研究がおこなわれているのか、という全体的な見取り図を獲得することも必要です。どんなに高度な専門知識であっても、広い展望のなかにしかるべく位置づけられるのでなければ、ただの無意味な断片にとどまってしまうからです。

このように無限とも思える学問の広がりを前にしてみれば、自分がまだほとんど無知に等しい不自由な状態であることを、誰もが痛感せずにはいられないでしょう。ですから大学ではまず飛躍的に視野を広げ、多様なフィールドで「知識の限界」を乗り越えるべく努力しなければなりません。それこそが、リベラルアーツの出発点です。

第二に挙げなければならないのは、「経験の限界」です。皆さんの多くは、これまでの時間の大半を家族や友人たちと過ごしてきたのではないかと思いますが、そのぶん、異なる価値観に触れる機会は乏しかったのではないでしょうか。

また、中には海外経験のある人も相当数おられると思いますが、まだ日本から一歩も出たことがない人も少なくないでしょう。世界にはどんな国や地域があるのか、そこにはどんな人々がいて、どんな言葉をしゃべり、どんなことを考え、どんなものを食べ、どんな生活をしているのか、そうしたことを知らずにいたのでは、異文化理解も深まりようがありませんし、他者とともに生きることの喜びや苦しみを実感することもできません。

東京大学では、昨年度から「初年次長期自主活動プログラム」、通称FLYプログラムが始まり、一年目は十一名の新入生たちが特別休学制度を利用して、世界の各地で、あるいは東北の被災地で、思い思いの活動をしてきました。

彼らは自分と同じような境遇の人々に囲まれて安住する心地よさからいったん離れ、まったく異なる環境に身を置くことをあえて択んだわけですが、それぞれの行く先で未知の文化や風習との出会いに驚き、時にはショックを受けながらも、ずいぶん多くのことを学んだようです。これはまさに「経験の限界」から自らを解き放とうとする果敢な試みであり、リベラルアーツを実践する場が教室だけではないということを、みごとに証明してくれた例だと思います。

ところで、「知識」も「経験」も、意欲をもって努力さえすればいくらでも拡大することができますが、私たちを拘束している第三の限界は、必ずしも量的な努力によっては越えることができないもの、それだけに、おそらく最も克服することのむずかしいものです。すなわち、「思考の限界」がそれです。

思考は基本的に言語によって営まれますが、言語とはもちろん自分だけの所有物ではなく、ある共同体の共有物です。そのため、いったいどこまでが自分の言葉であるのか、どこからが他人の言葉であるのかという境界線は、どうしても曖昧にならざるをえません。

ということは、どこまでが自分の考えたことで、どこからが他人の考えたことであるかという境界線も、やはり曖昧であるということです。したがって、いかに創造性豊かな人間であっても、百パーセント「自分の言葉」だけで純粋に「自分の思考」と呼べるものを織り上げることは、不可能であると言わねばなりません。

その結果、私たちはともすると、他人の考えたことをあたかも自分自身の発想であるかのように錯覚したり、場合によっては他人の言葉をそのまま写し取ってしまったりする危険があります。

昨今、学術論文におけるコピー&ペーストの問題が新聞報道などでもクローズアップされていますが、意図的な引き写しは明らかな不正行為ですから論外としても、厄介なのは、そうとは自覚せずに他者の言葉を反復してしまうこと、すなわち「無意識のコピー&ペースト」が、目に見えない形で私たちの思考を侵食しているということではないでしょうか。

じっさい、自分ではオリジナルなことを言っているつもりでも、じつはこれまで誰かによってすでに言われてきたことを焼き直しているにすぎない、といったことは往々にしてあるものです。自分の頭で主体的にものを考えているはずなのに、いつのまにか出来合いの図式をなぞってしまう―私たちの思考を不自由にするこの惰性的なメカニズムに絡めとられないためには、いったいどうすればいいのでしょうか。

いささか逆説的に聞こえるかもしれませんが、他者の思考の模倣に陥らないためには、まずその中にどっぷり身を浸してみることが必要です。そしてその最も有効な手段は、ひたすら本を読むこと、これに尽きると私は思います。書物という言葉の海に全身で飛び込み、必死にもがきながら自力で泳ぎ渡ることによって、はじめて人は自分だけの言葉を鍛え上げ、自分だけの思考を紡ぎ出すことができるからです。

最近の調査結果によれば、まったく本を読まない大学生の割合がはじめて四割を越えたそうです。一日の平均読書時間も、わずか二六・九分と報告されていました。これらの数字は複数の大学の平均ですから、まさか東大生にはあてはまらないと思いますが、さて、皆さんはいかがでしょうか。

読書量の減少はスマートフォンの普及と連動している、という説もあります。時代とともに生活形態が変化するのは当然ですし、そこから新しい文化が生まれていくことも事実ですから、この傾向についてとやかく言うつもりはありませんが、その一方で皆さんが書物から遠ざかり、他者の言葉と粘り強く格闘する機会を失い、その結果「思考の限界」から抜け出せなくなっているとすれば、やはり問題でしょう。

現にいまこうして私が話している間にも、手元でスマホを操作して、ツイッターにメッセージを流している人がいるかもしれません。いまだにガラパゴス携帯を手放せない身としては、その器用さに軽い嫉妬を覚えつつ、ただ感心するほかないのですが、刹那的に生産され、瞬時に流通していく定型的な記号の群れが、加速度的に「無意識のコピー&ペースト」を増殖させ、思考の主体性を麻痺させてしまう恐れはないのかと、いささか心配になるのも正直なところです。

スマートフォンの画面を見る時間のすべてとはいわないまでも、せめて半分くらいは読書のために割いてほしいと願うのは、アナログ人間の時代錯誤的な郷愁にすぎないのでしょうか。

言うまでもなく、ここで私が言っている読書とは、単に知識を増やすためのそれではありません。確かに本を読めば読むほど知識の量は増えるでしょうが、それよりもむしろ、自分と異なる価値観や世界観と正面から向き合い、真剣に対峙することを通して、自らを相対化することこそが重要なのです。

ですから場合によっては、一冊の書物と出会うことで、知っていたはずのことが疑わしくなったり、わかっていたはずのことがわからなくなったりすることもあるでしょう。それまでまったく触れたことのない言葉に触れて、火傷するような痛みを覚えたり、自分が崩れるような感覚に襲われたりすることもあるかもしれません。

まさにそのときこそ、自分は「思考の限界」から解放されるチャンスを手にしているのだと思ってください。それはまた、言葉本来の意味における「教養」が、皆さんの中に萌しつつあることのしるしでもあります。なぜなら、教養とは足し算によってただ蓄積されるだけではなく、時には「引き算」によって、あるいは「割り算」によって、絶えず問い直され、解体され、そして再構築されるべきものであるからです。

いま、ここにある自分に充足し固着してしまうのではなく、ここにはない自分、どこかにあるかもしれないけれどもまだ見つかっていない自分に向けて精神を開くこと、そしてやや大げさな言い方をすれば、自らの存在そのものを根底から揺り動かし、突き崩し、組み替え続けること、それこそが「教養」の本来あるべき姿であり、人間を自由にする「リベラルアーツ」の本質にほかなりません。

ですから皆さんには、教養学部での学びを通して、ただ多くの知識を所有しているというだけの、座して動かない「知識人」ではなく、いくつもの壁を突き破りながら自らを不断に更新していく、自由で軽やかな「教養人」になることを目指してほしいと思います。

以上、知識、経験、そして思考という三つの視点から、思うところを述べさせていただきました。もちろん、長い人生の中で、乗り越えるべき限界はこれ以外にもまだまだ数多く存在します。その意味で、リベラルアーツとは生涯にわたって継続される、終わりなき自己解放の運動であると言ってもいいでしょう。

しなやかな知性と若々しい感性に恵まれた皆さんが、駒場キャンパスでその第一歩を踏み出し、新しい友人たちと切磋琢磨してめざましい成長をとげ、やがては名実ともに日本の、さらには世界のリーダーへと飛躍してくださることを願いつつ、私の式辞を終えたいと思います。

 

平成二十六年四月十一日

東京大学教養学部長 石井洋二郎

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