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平成30年度 教養学部学位記伝達式 教養学部長式辞(平成31年3月26日)

本日ここに学位記を伝達される教養学部三学科(教養学科、学際科学科、統合自然科学科)のみなさんのひとりひとりに、教養学部を代表して心からお祝い申し上げます。

それぞれの進路において、ここ教養学部で学んだことを最大限活用して、存分に活躍されるよう期待しております。

昨年私はこの式典において、みなさんの一年上の先輩たちに、「これから伝達されることになる学位記に記載されている学位は何ですか」と尋ねました。万が一にも答えられない人は、本日の式次第にある「平成三〇年度学位記伝達式」の年度をかえて、学部のウェッブサイトで検索してください。もちろん、式の終了後です。因みに、昨年はその学位の英語名称は何かとも尋ねました。ここにいるみなさんの多くは、既に英文の履歴書を用意したことがある、あるいは遠くない将来、用意することがあるでしょう。その際に、学歴として文系の場合ならBachelor of Arts, 理系の場合ならBachelor of Scienceと記載してしまうとしたら、それは明らかな間違いです。なぜなら、本学の場合にそれらの学位を認定するのは他学部だからです。理由は説明するまでもありませんが、履歴書の学歴欄の記入にあたって正確を期すのが賢明というものでしょう。

学位記も興味深いのですが、本日の話題はそれではありません。学部名について考えます。みなさんが学位を認定される教養学部とはいったいどのような学部なのでしょうか。

東大の問いですから、この問いについて一義的な解答を示すことはできません。とはいえ出題意図はあります。

みなさんのうちの相当数は、教養学部の英語名称はCollege of Arts and Sciencesであることをご存知のはずです。そこで、その知識を活用して、「私の所属していた学部は、文系プログラムと理系プログラムの両方を包摂するもので、私の場合には文系でした、あるいは理系でした」、などと答える。これ以上何も出てこなくても、ここまで到達すればCは確保できます。不合格は免れました。

皆さんには、もう少し考えてほしいところです。一定数の人たちは、正門には教養学部の表札のほかに、大学院総合文化研究科の表札も掛かっていることをご存知でしょう、さらにこの大学院総合文化研究科の英語名称はGraduate School of Arts and Sciences だという知識をお持ちでしょう。Arts and Sciencesの部分は、教養学部にせよ総合文化研究科にせよ同じです。そこで、「教養学部は、大学院に至るまで、一貫して従来の学問領域を横断するリベラルアーツ型の教育を重んじています。私はそこで幅広く、超域的に文化を学びました、学際的に科学を学びました、あるいは統合的に科学を学びました」と答える。かなり良い答えだと思いますが、Bです。これではまだ十分にではありません。

教養はArts and Sciencesで、総合文化もArts and Sciencesである、という断片的な知識を複数持っているだけでは不十分です。Arts and Sciencesを介して、教養と総合文化という二つの言葉がつながる、この意外な対応関係を観察したら、なぜこのようなつながりが生じるのかと自問すべきではないでしょうか。意外な対応関係といったのは、教養の類語として、総合文化を連想する人はまずいないと思うからです。

いずれにせよ、総合文化とは何かが明らかになれば教養とは何かも明らかになるのですが、そもそもこの総合文化がよくわかりません。文化研究ならばcultural studies で、それに総合がついていれば、interdisciplinary cultural studiesという意味でしょうか。実は駒場における組織名としては、interdisciplinary cultural studiesは、超域文化科学と訳します。たしかに総合文化は学際的な文化研究を含んでいますが、それに尽きる訳ではないので、総合文化研究は総合的な文化研究ではありません。

ではなぜ、教養と総合文化とにはArts and Sciences という同一の訳語によって繋がれているのでしょうか。さきほど出題意図はあると申しましたが、それは学部卒業にあたり、少なくともご自分の学歴の根幹を成す学術的アイデンティティについて自覚的に考察する機会をもっていただきたいと考えた、ということです。総合文化研究科の総合文化は、私の解釈では、「総合の文化(すなわち、総合的に思考する文化)」であり、その文化を培うという意味において教養と同義であると考えられます。

人間社会が直面する難題は、学問をなりわいとするものにとって都合よく、既存の特定学問分野の枠の中で十分に解答できるものばかりではありません。特定の学問分野の枠の中で、過不足なく解答できるのは、極論すれば、学問体系を再生産するために行われる試験の問題ぐらいのものです。教養学部で学ばれた皆さんが、既に解答のでている問題に自分もまた解答できるということに知的に満足しようはずはありません。

総合的に思考するとは、学術的知識という意味での学知を細分化する従来の境界を超えて、断片的な知見を統合・連結する総合的な知的探究を行うことにほかなりません。皆さんには、この総合的な思考をこれからも続けてもらいたいと思います。

そしてこの総合的思考の習慣なしには、社会の責任ある構成員たりえないと私は考えます。そしてみなさんにとって社会の責任ある構成員であるために必要な思考習慣を培う場が教養学部であったはずだと思います。

地球規模の人間社会が直面する課題が何であるのかを捉え、その解決に主体的に取り組むには二つの感受性が必要です。一つは、変化への感受性であり、もう一つは多様性への感受性です。

まず変化への感受性について述べます。現在において有用な知識は将来においても有用であるとは限りません。一個人の生涯労働期間に産業構造の変化の起きる社会では、すぐに役に立つ実務知識などすぐに役に立たなくなります。私たちにとって必要なのは現時点においてただちに役に立つ実務的な知識ではなく、現在を絶対化することのない柔軟な知のあり方、すなわち変化への感受性です。総合研究大学の存在意義もまさにそこにあります。社会で活躍するには何を措いても実務教育だとするような短絡は、総合大学には馴染むものではありません。

次に多様性への感受性について述べます。広がりをもった知のあり方や異なる発想への敬意なしには、人間社会の直面するディレンマを解決できるものではありません。たとえば、経済成長と自然環境の保護という二つの価値は両立しがたいということが、持続的開発の文脈でしばしば語られております。この持続的開発の問題を含むさまざまな難題の解決に求められるのは、いずれか特定の立場・見解・発想を絶対化することのない多様性への感受性です。

教養とは、このように変化への感受性と多様性への感受性を備え、学術的知識の境界を超えて総合的に思考し、変化に適応し、多様な発想と共存する文化を意味するものだと私は考えます。教養学部を卒業する皆さんには、広く世界を見渡し、遠く未来を見据え、いわば天涯に知己を得て、彼ら・彼女らと協働し、地球規模の諸課題に主体的に取り組む、そのようなグローバル・シティズンとして人類社会に貢献してもらいたいと願うものです。

学知の境界を超えて総合的に思考することは、私たちが大切にする文化です。学部を卒業し、これで駒場を離れても、総合的に思考し続ける限り、駒場の文化はみなさんとともにあります。その駒場の文化を継承することにみなさんが誇りを感じてくださるならばこれに勝る喜びはありません。

皆さんの今後の活躍をこころから期待しております。

以上をもちまして私からのお祝いの言葉といたします。本日は誠におめでとうございます。


2019年3月26日

東京大学教養学部長 石田 淳

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