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最終更新日:2026.04.17

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トピックス 2026.04.16

【研究成果】細胞のラマン分光計測から、分子組成の量比保存度構造に基づく細胞状態評価へ ──遺伝子発現の大域的制約から考える細胞の動作原理──

2026年4月16日
東京大学

発表のポイント

  • 細胞にレーザー光を照射して得られるラマン散乱光のスペクトルパターンが、細胞内の網羅的な遺伝子発現パターン(プロテオーム)と対応することを発見し、この対応を詳細に解析することで、網羅的な遺伝子発現パターンの一般的特徴を解明した。
  • ラマン散乱光からプロテオームの大域的な変動が推定できることを初めて示したのみならず、遺伝子発現の量比やその保存度に注目して細胞の分子構成の大域的な変動を調べる観点とそのための数理手法を新規に導入した。これにより、網羅的な遺伝子発現パターンの変動が、発現量比保存度に基づく大域的制約を受けていることを明らかにした。さらにこの制約下での遺伝子の階層構造が細胞ラマン散乱光のスペクトルパターンに反映されていることも初めて示した。
  • ラマン散乱光が持つ細胞分子組成の粗視的情報を、細胞の主要な状態変化の把握や細胞システムの設計原理の探求に使うという、振動分光技術の生物学における新しい使い方を開拓・提示するとともに、可塑性と恒常性を両立する細胞システムの動作原理の理解へ向けて、分子間の量比や量比保存度の重要性を指摘している。
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ラマンスペクトルとプロテオームの非自明な低次元対応

概要

 東京大学大学院理学系研究科の亀井健一郎特任研究員(研究当時:同大学大学院総合文化研究科博士課程学生・特任研究員)、同大学大学院総合文化研究科の若本祐一教授らの研究チームは、細胞にレーザー光を照射して得られるラマン散乱光のスペクトルパターンから、細胞を破壊することなくプロテオームの大域的な変動を推定できることを明らかにしました。推定ができる背景事情を詳しく調査したところ、発現の量比保存度に基づくプロテオームの大域的制約や遺伝子の階層性の存在が明らかになりました。この大域的制約や階層性は、可塑性と恒常性の両立という細胞システムの一大特徴にとって本質的に重要であることが示唆され、細菌からヒト細胞まで広く存在することが確認されました。同時に、この量比保存度階層構造が細胞ラマン散乱光のスペクトルパターン全体に反映されていることも分かり、複雑なスペクトルパターンに対してオミクスレベルの解釈を与えることができました。本研究は生物学における振動分光技術の新しい使い方を提示するもので、振動分光技術の将来の可能性を広げると期待されます。また、構成要素の量比やその保存度を大域的に調べるという、細胞システムの動作原理の理解へ向けた新たな視点も提示しています。


発表内容

 細胞は、外部環境の変化や内部の遺伝的変化に柔軟に適応応答しつつ、同時に生理的機能を維持できるという重要な特徴をそなえています。しかし、一見両立が難しそうなこの適応性(可塑性)と恒常性(頑健性)を細胞システムがどのように同時に実現しているのか、その普遍的な原理については理解が十分に進んでいません。細胞が見せる成長、適応、分化、進化といった様々な機能や性質は、内部にある膨大な種類の分子の発現がお互いに連携しながら状況依存的に変化することによって実現しているため、適応性と恒常性を両立させる細胞システムの動作原理を明らかにするには、まず細胞の網羅的な分子動態を把握し、その上でこれを適切に粗視化して、分子構成の全一的な変化がどのような大域的ルールに従うのかを探ることが有効であると考えられます。

 細胞の網羅的な分子情報を得る手段としては、いわゆるオミクス技術(注1)が生物学分野で広く用いられています。オミクス技術が発展したことで遺伝子発現産物や代謝物質の網羅的なデータ(オミクスデータ)が得られるようになりました。しかしオミクスデータは個々の物質の量がリストアップされた詳細な一覧表です。これをどのように粗視化すれば細胞システムの動作原理に迫れるのでしょうか? 細胞は単なる分子の集まりではなく秩序を持って文脈依存的に変化し機能しているシステムです。そのようなシステムとしての細胞の構成(分子構成)の変化が従うルールを、オミクスデータからどのように抽出できるのかという重要な問題があります。

 この問題に対して研究チームは、オミクス技術とは全く異なる方法で得られる細胞の網羅的な分子情報を、オミクスデータと突き合わせて比較検討してはどうかと考えました。そこで研究チームが着目したのがラマン分光法です。光を分子に当てると、分子振動に依存して波長が変化した散乱光すなわちラマン散乱光が発生します。ラマン散乱光のスペクトル(ラマンスペクトル)を利用して標的分子を評価する手法がラマン分光法です。分子振動は分子種に固有であることから、ラマンスペクトルはいわば分子の指紋と見做せます。したがって、細胞にレーザー光を当てると、その細胞の網羅的な分子構成が反映されたラマンスペクトルが得られます。しかし細胞は膨大な種類の分子から成り立っているため、細胞のラマンスペクトルは多種多様なスペクトルが重ね合わさっており、非常に複雑です。この複雑なスペクトルパターンを分解して個々の分子種を網羅的に同定することは実質的にできません(図1)。

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図1:細胞のラマンスペクトルの例

 その一方で、異なる環境条件で培養した大腸菌をモデルとして、各条件の細胞のラマン散乱光を取得し、そのスペクトルを分解するのではなく線形次元圧縮したところ、スペクトルの最も主要な変化が細胞の増殖率と強く相関していることが分かりました(図2)。したがってラマンスペクトルは、細胞の分子構成を直接一覧表という形では提供しないながらも、細胞状態の主要な変化を分子構成に基づいて確実に捉えていると考えられます。研究チームは、従来のオミクスデータとは異なる細胞ラマンスペクトルのこの性質が、細胞状態の評価やオミクスデータの適切な粗視化をおこなう上で有用なのではないかと考えました。

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図2:線形次元圧縮した細胞のラマンスペクトル
A) 様々な培養条件下の大腸菌の細胞のラマンスペクトルを線形次元圧縮した結果。一点一点が次元圧縮後の細胞のラマンスペクトルを表し、点の形や色の違いが培養条件の違いに対応する。主要2軸を示した。
B) ラマンスペクトルの最も主要な培養条件依存的変化(図2Aの横軸)と、細胞の増殖率の培養条件依存的変化の関係。

 そこでオミクスデータの一つであるプロテオーム(遺伝子発現のタンパク質レベルでの全体像)のデータと、先述の線形次元圧縮したラマン散乱光との関係を線形回帰によって調べたところ、プロテオームの条件依存的な大域変化がラマンスペクトルのパターンの主要な変化と対応していることが分かりました。なお、この対応を利用すれば、プロテオームの大域的な変化をラマンスペクトルから細胞の破壊を伴わずに推定することができます(図3)。

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図3:ラマンスペクトルからプロテオームを推定した例
質量分析法により計測されたプロテオームとラマンスペクトルから推定したプロテオームの比較。各点がそれぞれ異なる遺伝子に対応する。

 次に両者が対応する背景事情を明らかにするために、先に求めた線形対応関係を詳しく調査したところ、条件が変わっても多くの遺伝子の発現量の比がほぼ一定に保たれていることが分かりました。一般には発現量の条件依存的な変化のしかたは遺伝子ごとに異なり、それゆえ異なる遺伝子の発現量比は条件依存的に変動します。したがって、発現量比がほぼ一定のまま保たれている遺伝子群の存在は、遺伝子発現が満たす大域的な制約の一端を示していると考えられます。そこで、細胞の置かれた条件が様々に変わった時に発現量比がどの程度保たれるかを全遺伝子ペアについて評価し、その上で、量比保存度の観点でプロテオームにかかる大域的な制約を計算する線形次元圧縮法「csLE」を開発しました。csLEはグラフ理論やネットワーク理論の基礎を利用した手法です。

 csLEをオミクスデータに適用すると、オミクスデータが満たす量比保存度に基づく大域的な制約を、オミクスの低次元構造として得ることができます。先のプロテオームにcsLEを適用し、得られた低次元構造を観察すると、その中央部にはあらゆる条件で量比をほぼ一定に保ったまま発現する多くの遺伝子が配置されており、複製や転写、翻訳など細胞の自己複製を様々な場面で支える多くの遺伝子もこの中にありました。研究チームはこれを「homeostatic core(恒常性中心)」と命名しました。一方周縁部には、各条件に対して細胞が適応応答する際にそれぞれの条件に特化して発現する遺伝子群が配置されていました。これらも各遺伝子群内で量比がほぼ一定に保たれています。すなわち、量比保存度という観点からプロテオームにかかる大域的な制約を評価することで、細胞システムの恒常性(頑健性)と適応性(可塑性)に対応した遺伝子の空間配置が得られたのです(図4)。

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図4:csLEによって得られた量比保存度に基づくプロテオームの低次元構造と量比保存遺伝子群の同定
A) csLEによって得られた量比保存度に基づくプロテオームの低次元構造。主要3軸を示した。構造が分かりやすいように、異なる角度から見た二つの図を示した。一点一点が各遺伝子を表す。近くに配置されている遺伝子ほど、条件が変わっても量比を保つ傾向が強い(条件依存的な発現変化のパターンが似ている)。色付きの点で示したのは培養条件が変わっても量比がほぼ一定に保たれる遺伝子群の例であり、図4Bと対応する。中央にある大きな量比保存遺伝子群がhomeostatic core(恒常性中心)で、細胞の自己複製に関わる多くの遺伝子もこの中にある。周縁にある量比保存遺伝群は、各条件に適応応答した細胞内で特異的に発現する遺伝子群である。各頂点が異なる培養条件に対応する。
B) 図4Aにおいて色付きの点で示した各量比保存遺伝子群の発現パターン。一本一本の折れ線が各遺伝子の条件依存的な発現量変化を表す。細胞が置かれた条件の違いは細胞の増殖率で表現した(横軸)。

 遺伝子のこの空間配置、つまり量比保存度の観点で評価したプロテオームの低次元構造内で各遺伝子がどの程度中央にあるか、周縁にあるかという階層性を定量的に評価したところ、各遺伝子の階層内位置「stoichiometry conservation centrality(量比保存度中心性)」は、遺伝子の進化的な保存度の強さや必須性(注2)とも相関していることが分かりました(図5)。また、以上の性質は細菌からヒト細胞まで広く共通していることも確認できました。

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図5:量比保存度の観点から見た遺伝子の階層性
A) 図4Aに示した量比保存度に基づくプロテオームの低次元構造を各遺伝子のstoichiometry conservation centrality(量比保存度中心性)で着色した様子。
B) stoichiometry conservation centrality(量比保存度中心性)と遺伝子の必須性の関係。

 これらの結果は、遺伝子の機能や進化的保存度、必須性といった個々の遺伝子ごとに記述されてきた性質を、量比保存度という遺伝子間の関係性及び遺伝子発現全体にかかる大域的な制約と定量的に結びつけるものであり、細胞システムの動作原理を理解する上で重要な発見であると考えられます。なお、量比保存度の観点で見た遺伝子の関係性の全体(csLEで得たプロテオームの量比保存度低次元構造)は広義の遺伝子ネットワークと見做せますが、このネットワークは、背景にある詳細な分子機構を知らなくても構成することができます。発現制御ネットワークやタンパク質間相互作用ネットワークのような分子間の相互作用そのものではなく、分子間の様々な相互作用の結果として観察される遺伝子発現量の変動をネットワークとして表現し、細胞のマクロな性質と繋がる生物学的知見を得たという点にも本研究の特徴があります。

 そもそも遺伝子発現の量比やその保存度に着目する視点は、プロテオームとラマンスペクトルを接続したことから生まれたものでした。そこで、再びラマンスペクトルの複雑なパターンに戻り、ラマンスペクトルとcsLEによって得られたプロテオームの量比保存度低次元構造の関係を調べました。先述のラマンスペクトルの低次元空間にプロテオームをマップしたところ、csLEによって得られたプロテオームの量比保存度低次元構造と非常に類似した構造になっていることを発見しました(図6)。この類似は、ラマンスペクトルの主要な変化を記述する低次元軸で見たプロテオームの大域的変化(遺伝子の関係性や階層性)と、量比保存度の観点から見たプロテオームの主要な大域的変化(遺伝子の関係性や階層性)が対応していることを意味します。これは、細胞から得たラマン散乱光の複雑なスペクトルパターン全体が、細胞の恒常性・適応性や遺伝子の機能・進化的保存度・必須性とも連関した遺伝子発現の大域的制約に基づく細胞状態を反映していることを示しており、非自明な発見です。

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図6:ラマンスペクトルとプロテオームの非自明な低次元対応
A) csLEによって得られた量比保存度に基づくプロテオームの低次元構造。図4Aや図5Aと同じ。
B) 図2Aのラマンスペクトルの低次元空間にマップしたプロテオーム。いずれの図も主要3軸を示した。

 本研究は、構成要素の量比やその保存度を大域的に調べるという、細胞システムの動作原理の理解へ向けた新たな視点を提示しています。恒常性(頑健性)と適応性(可塑性)といった細胞の本質的性質をシステムレベルで評価し、細胞の動作原理に対する理解を深化させていくのに貢献すると期待されます。同時に、複雑なラマンスペクトルパターンに対してオミクスレベルの解釈を初めて与え、生物学における振動分光技術の新しい使い方を提示しているため、細胞状態を観察し評価する手段としての振動分光技術の新たな将来を拓く可能性もあります。


発表者・研究者等情報

東京大学

大学院理学系研究科
亀井 健一郎 特任研究員
研究当時:東京大学大学院総合文化研究科 博士課程学生・特任研究員

大学院総合文化研究科
若本 祐一 教授


論文情報

雑誌名:eLife
題名:Revealing global stoichiometry conservation architecture in cells from Raman spectral patterns
著者名:Ken-ichiro F Kamei*, Koseki J Kobayashi-Kirschvink, Takashi Nozoe, Hidenori Nakaoka, Miki Umetani, Yuichi Wakamoto*
DOI:10.7554/eLife.101485


研究助成

本研究は、JST CREST JPMJCR1927、JST ERATO JPMJER1902、JSPS科研費19J22448、21K20672の助成を受けたものです。


用語解説

(注1)オミクス技術
細胞内の分子構成を網羅的に計測する技術の総称。遺伝子発現の転写産物(RNA)レベルでの全体像「トランスクリプトーム」を計測する手法や翻訳産物(タンパク質)レベルでの全体像「プロテオーム」を計測する手法、代謝物質の全体像「メタボローム」を計測する手法などがある。

(注2)遺伝子の必須性
ある遺伝子を欠損させると細胞が生存できない時、その遺伝子は必須であると言う。各遺伝子が必須かどうかは、細胞の置かれた環境条件や遺伝学的条件に依存して、ある程度変化する。

―東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 広報室―

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