HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

マルセル・モース研究と〈たましい〉──第19回日本文化人類学会賞を受賞して──

森山 工

 わたしは現在、〈たましい〉を研究上のキーワードとしています。

 こう書くと、オカルト的な世界に分け入るかのように思われるかもしれません。ただ、わたし自身が(わたしの人生観や世界観として)〈たましい〉をどう捉えるのかということと、さまざまな時代や地域の人々が、その生活文化のなかで〈たましい〉をどう捉えてきたのかというのは別です。わたしが研究上のキーワードというのは、後者の意味での〈たましい〉です。

 わたしたちは、人という存在者が〈からだ〉(外形的身体性)と〈こころ〉(内面的精神性)とからなるという素朴な理論をもっています。けれども、さまざまな時代や地域においては、この〈からだ〉と〈こころ〉の二元論が、人間以外の生命体にもあてはめられてきました。さらには、生命体ではない物的存在者(モノ)にもあてはめられてきたのです。一九世紀後半のイギリスの人類学者エドワード・タイラーは、そうした存在者認識を「アニミズム」として定式化しました。

 わたしの問題意識は、この「アニミズム」という存在論の上で、人であれ、人でない生命体であれ、物体であれ、そうした個別の存在者が、それぞれの〈からだ〉と〈こころ〉との対応からなる個体性を超えたところに、いわば万物の存在理由としての〈たましい〉という領野を有しているのではないかというところにあります。正確にいうと、さまざまな時代や地域の生活文化はそのように想定してきたのではなかったか、というところにあります。

 さてわたしは、去る六月一五日に、一般社団法人日本文化人類学会から、日本文化人類学会賞(第一九回)を授与されました。授賞対象となったのは、「マダガスカル民族誌とモースの贈与論に関する一連の研究」です(https://www.jasca.org/)。わたしはインド洋西域のマダガスカルをフィールドとする文化人類学者ですが、研究の過程でマダガスカル近代史やフランス植民地主義史の研究にも従事してきました。また、「社会学」の確立において一翼を担った「フランス社会学派」の成立と展開にも関心を惹かれ、とくにマルセル・モ―スという社会学者・民族学者の社会思想を研究してきました。

 授賞対象において「マダガスカル民族誌」を評価していただいたのは、フィールドワークの成果(「民族誌」)を評価していただいたものであり、文化人類学者としてこれに優る栄誉はないと受け止めています。他方で「モースの贈与論」というのは、いま言及したマルセル・モースの主著の一つである「贈与論」に焦点をあてた研究のことです。こちらについてわたしは、「贈与論」をはじめとするモースの著作を翻訳しつつ、『贈与と聖物』(東京大学出版会)という著作で「マダガスカル民族誌」を「モースの贈与論」と統合して理解することを試みました。また、「モースの贈与論」をモースの他の著作群との関係において理解することを試み、『「贈与論」の思想』(インスクリプト)という著作を公刊しました。授賞にあたっては、モース研究に位置づけられるこれらの成果を評価していただきました。最後の二点の著作は『教養学部報』の「本の棚」でも取りあげていただき、『贈与と聖物』については山田広昭さんに(第六三二号、二〇二一年一二月)、『「贈与論」の思想』については田中純さんに(第六四五号、二〇二三年五月)、それぞれ書評を執筆していただきました。

 このように研究を進める過程でわたしが着目したのが、モース「贈与論」における〈混ざりあい〉という考え方です。世界の原初のカオスをいっているように思えます。モースの立論では、この原初的な〈混ざりあい〉から、個物や個体が析出してあらわれ、個別化が進行するとされています。ここでは、個物や個体がまずあって、それらが〈混ざりあっている〉のではない、というのが要点です。〈混ざりあい〉のなかから個物や個体があらわれるのだからです。

 この立論から見るとき、〈からだ〉と〈こころ〉とからなる個別の存在者(人であれ、人以外の生命体であれ、物体であれ)は、〈混ざりあい〉の領野から個別化を遂げた存在者です。翻って、その存在者を成り立たせ、存在者の個別化を可能とする境位として、この〈混ざりあい〉を捉えることはできないだろうか。そうだとすれば、この境位は〈たましい〉としか呼びようのない境位となるのではないだろうか。万物に〈からだ〉と〈こころ〉があるとするのが「アニミズム」であるとしたなら、万物は、それらに共通の地盤として〈たましい〉という〈混ざりあい〉の境位に基礎づけられているのではないか。逆にいえば、さまざまな時代や地域で〈たましい〉と呼ばれてきたのは、この境位のことなのではないか。

 それというのも、個物や個体はそれ自体で自足して生存する(自存する)ことはできないからです。つねに他の個物や他の個体との関係において存立しているからです。個物や個体が相互的な関係をとりむすぶためには、そもそもそれらに〈共同性〉が措定されているのでなくてはなりません。その〈共同性〉を担保しているのが、まさにこの〈たましい〉という境位なのではないか。
まだ練りあげの足りない考察ですが、日本文化人類学会賞の授賞対象となった研究の一端をさらに展開したいと試みています。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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