教養学部報
第667号 ![]()
上限と下限を範囲で示すRange Nudgeが遵守行動を促す
植田一博
私たちは日常の中で、「制限速度60㎞/h」や「手洗い推奨時間20秒以上」といった数値で示されたガイドラインに従って行動することが少なくありません。ところが、本来は範囲の目安であるにもかかわらず、人は提示された単一の数値だけを目標値と受け取りがちです。最初に与えられた数値(アンカー)が心の中の基準として働き、その後の判断が引き寄せられてしまう現象は「アンカリング効果」と呼ばれます。上限や下限だけが示されると影響はいっそう強まり、意図しない速度超過や手洗い時間の不足を招き、安全や健康のガイドラインを守りにくい状況を生んでいると考えられます。
この問題に対して、広域システム科学系の植田一博教授と大貫祐大郎大学院生(研究当時、現・成城大学専任講師)は、ノーベル経済学賞受賞者のRichard H. Thaler博士が提唱した行動科学の枠組みであるナッジに着想を得て、新たな行動促進手法「Range Nudge(レンジ・ナッジ)」を提案しました。ナッジとは、金銭的な報酬や罰則を用いず、選択肢の設計や表現の工夫によって、人々が望ましい選択を自然と取りやすくする手法の総称です。Range Nudgeはその一種で、従来は上限または下限だけが掲示されてきた数値ガイドラインを、はっきりとした「範囲」として提示し直すだけで、判断や行動をより望ましい方向へ導くことを狙います。例えば「制限速度60㎞/h以下」を「0~60㎞/hの範囲」と言い換える、「手洗い20秒以上」を「20秒から60秒の範囲」と伝える、といった表記の小さな変更がポイントです。
提案手法の有効性を確かめるため、オンライン調査(実験1、3a、3b)、ドライビングシミュレータを用いたラボ実験2、実際の手洗い行動のラボ実験5aとフィールド実験(作業の前後における集団での手洗い実験4、自宅での個別の手洗い実験5b)からなる七つの実験を行い、延べ一一九九名が参加しました。なかでも実験2では、速度標識で「60㎞/h」とだけ示すより、「0~60㎞/h」と範囲を明示した方が平均走行速度は有意に低くなり、制限超過の発生も抑えられました。また実験4の手洗いでも同様に、「20秒以上」と示すより「20~60秒」と範囲を明示した方が、実際の手洗い時間が有意に長くなりました(図を参照)。興味深いのは、明示された範囲が「60㎞/h以下」や「20秒以上」と同じかむしろ狭くても、行動の改善がより大きく生じた点です。つまり、範囲そのものを具体的に見える形で伝えることが、新たな心理的目安を作り、アンカーの誤誘導を弱めたと解釈できます。

社会的な意義も小さくありません。速度制限が普及しているにもかかわらず、日本では年間およそ八八五〇〇件のスピード違反が摘発されています。アメリカでは運転者の22.7%が、スピード違反を主要なリスク行動として挙げています。実験2では、標識を「60㎞/h」から「0~60㎞/h」に変えただけで、制限速度60㎞/hを超過して走ってしまった区間での平均速度が、70.38㎞/hから67.12㎞/hへと下がり、減少率は約4.63%でした。さらに、平均速度が1㎞/h下がるだけでも、EUでは年間約二千人の命が救われ得るとの報告もあります。これらを踏まえると、現実社会におけるRange Nudgeの便益は大きいと言えます。
Range Nudgeは、掲示や表示の文言を「範囲」に改めるだけで導入できる、低コストで汎用性の高い実践手法です。道路交通だけでなく、衛生や健康、消費生活など数値ガイドラインが使われる幅広い領域での活用が期待されます。本研究の成果は、英国の科学誌Communications Psychologyに掲載されました。
(広域システム科学/情報・図形)
〇関連情報
【研究成果】上限と下限を範囲で示すRange Nudgeが遵守行動を促す──制限速度超過の減少ならびに手洗い時間の増加を促進──
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250714180000.html
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