HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報668号(2025年12月 1日)

教養学部報

第668号 外部公開

統合自然科学で挑むがん治療の研究

野本貴大

 統合自然科学で挑むがん治療の研究 野本貴大 がんを治療する方法の一つとして、ホウ素中性子捕捉療法(boron neutron capture therapy:BNCT)というものがあるのをご存知でしょうか。BNCTは、ホウ素(10B)を含む薬剤をがん細胞に選択的に取り込ませ、そこに体外からエネルギーの低い中性子線を照射することで、がん細胞の内部でのみ強力なアルファ線とリチウム反跳核を発生させ、がん細胞を選択的に殺傷する治療法です。正常組織へのダメージを抑えつつ、難治性がんを治療できると期待されています。私は、約二十年前に駒場Ⅰキャンパス5号館で受けた講義の中でBNCTを初めて知り、物理・化学・薬学・医学を統合した発想の大胆さに感銘を受け、現在、BNCTの研究に携わっています。BNCTは、二〇二〇年に世界に先駆けて日本で実用化(「切除不能な局所進行又は局所再発の頭頸部癌」について保険適用)され、様々な癌種に対する適応拡大と、日本から世界へと普及していくことが期待されている医療技術です。適応拡大の鍵となるのはホウ素薬剤の開発であり、駒場Ⅰキャンパス3号館にて私たちは新たな薬剤開発に取り組んでいます。

 現在、臨床で承認されている唯一のホウ素薬剤は4─ボロノ─L─フェニルアラニン(BPA)という化合物です。BPAはフェニルアラニンやチロシンと類似した構造を持ち、多くのがん細胞で過剰に発現しているLAT1というアミノ酸トランスポーターを介して細胞内に取り込まれるため、がんに選択的に集積することが可能です。一方で、BPAにはがん細胞に長時間とどまれないという特徴もあります。これは、LAT1が交換輸送体であることに原因があります。すなわち、BPAがLAT1を介して細胞に取り込まれる際には、グルタミンなどの細胞質内に豊富に存在するアミノ酸が交換で排出されることになりますが、細胞外BPA濃度が低下すると、細胞外のチロシンなどのアミノ酸を取り込み、折角細胞質に取り込んだBPAを外に排出してしまいます。BNCTでは約三十~六十分かけて中性子が照射されますが、その間にがん細胞からBPAが排出されてしまうと治療効果が低下してしまいます。そのため、臨床の現場では、中性子照射中にBPAを持続点滴投与することでホウ素濃度を高く維持する工夫がなされていますが、ホウ素薬剤のがん内滞留性を高めることができれば治療の自由度が格段に向上すると考えられています。

 私たちは、BPAの滞留性を高める方法として極めてシンプルな方法を開発してきました。具体的には、BPAと生体適合性材料のポリビニルアルコール(PVA)を水中で混合するだけで複合体を形成し製剤化するというものです。もう少し詳しく説明すると、BPAとPVAを水中で混合するとBPAの持つフェニルボロン酸部位とPVAの持つ多価水酸基がボロン酸エステルを形成し、BPAのLAT1標的機能を維持しながらPVA一分子に多数のBPAを担持させることができます。このように高分子に結合したBPAはLAT1に結合するものの、LAT1により細胞質へと運ばれるにはサイズが大きすぎるため、エンドサイトーシスという経路で細胞内小胞(エンドソーム・リソソーム)へと運ばれます。すなわち、PVAに結合したBPAは一時的に細胞質から隔離されるため、前述の交換輸送による細胞外排出を回避・遅延させ、がん内滞留性を高めることができます。この技術については、基礎研究として、大腸がん細胞・膵臓がん細胞皮下移植マウスモデルでがん内滞留性及び治療効果の劇的な向上を実証しました。

  本技術の実用化を目指すにあたり、具体的な標的疾患を肺がん、特に悪性胸膜中皮腫に代表されるような治療の難しい胸部の腫瘍に定めることにしました。なぜならば、肺のような体の深部に存在するがんでは、治療に十分な中性子を照射しようとすると照射時間が長くなることが想定されます。そのため、薬剤ががんに滞留する時間も重要になります。PVAによるBPAのがん内滞留性の向上はこのニーズにまさに合致すると考えたのです。

  一方、実用化には、製剤化手法を最適化する必要がありました。当初のPVAとBPAの製剤では、完全に溶解した水溶液の状態に保つためにpHを9.2程度の塩基性にする必要がありましたが、安全性を考慮するとpHは生理的な中性付近であることが望ましいと考えられました。そこで我々は、溶解補助剤としてソルビトールという糖を添加することで、中性付近のpHで調製可能であり副作用を無視できるレベルにまで低減した新しい製剤を開発しました。この改良された製剤を、難治性のがんである悪性胸膜中皮腫を模した胸腔内腫瘍マウスモデルに投与したところ、従来のBPA製剤と比較して、がんへの効率的な集積と長時間の保持を達成しました。その結果、BNCTによる治療でマウスの生存率を有意に改善することに成功し、PVAが肺がんなどの体幹部がん治療におけるBPAの治療効果を増強する有望な材料であることを示しました。現在、さらなる製剤最適化と規格化を産業界と連携しながら進めています。

  こうした研究を紹介すると、「先生のご専門は何ですか?どうしたらこのような発想が出てくるのですか?」と尋ねられることがあります。私は元々、ドラッグデリバリーシステムという研究分野に興味を持ち、薬剤開発のための材料化学、特に高分子材料を中心に研究してきました。また、大学院生のときには機械工学やシステム開発が好きな医学部の先生と研究する機会も得て、その方の影響を受けて顕微鏡研究や実験の効率化に没頭していた時期もありました。そのため、どれを取って自分の専門と言って良いのか分からないので「専門はドラッグデリバリーです」と答えることにしています。BNCTのような集学的治療は、一見関係なさそうな異分野が融合して初めて生まれるものであり、その薬剤開発は様々な分野の自然科学を統合して行っています。既存の学問の枠組みにとらわれず、自分の興味が赴くままに没頭し、また新たな興味が湧けばフットワーク軽くそちらも学び続ける。その結果として、本研究の発想が生まれてきたのだと感じています。もしこれを読んでくれているのが学生さんでしたら、ご自身の進路を考える際に、本稿が少しでも参考になれば嬉しく思います。

(生命環境科学/化学)

〇関連情報
【研究成果】「液体のり」の成分を利用した悪性胸膜中皮腫治療 ──ホウ素中性子捕捉療法用ポリビニルアルコール製剤の実用化に向けた画期的一歩──
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250730050000.html

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