教養学部報
第671号 ![]()
原点と座標軸を組み直す
総長 藤井輝夫
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。過去の多くの先人たちが積みかさねてきた知を受け取る受動的な学びから、まだ形をもたず、たどり着けてもいない知を創り出す能動的な歓びへの第一歩を、この東京大学において踏み出していただきたいと思います。
そうした新しい「知」は、どのように生み出されるのか。「原点」と「座標軸」という、すこし変わった観点から考えてみましょう。
「知」は、書物や実験室やWebのなかだけに存在するものではありません。私たちの日々の暮らしのなかにもさまざまな発明があり、工夫と創造と出会いの物語があります。
たとえば、和食文化を代表する料理を問われれば、「刺身」や「にぎり寿司」、「鰻の蒲焼き」、「天ぷら」などを、みなさんは思い浮かべるでしょう。これらはいずれも江戸後期に確立していきますが、その共通の「原点」に醤油があります。上方産の下り醤油しかなかった江戸という新興都市に、江戸時代の中期になると近くの野田や銚子で製造が始まった濃口醤油が、水運網を使って大量に運ばれ普及していきます。醤油の香りと成分が生臭さを抑え旨味を引き立てることで、刺身が発達し、にぎり寿司が生まれます。また、山椒味噌焼きだった鰻を醤油ベースで甘く仕上げる蒲焼きが流行し、天つゆで食べる天ぷらが定着していきます。
昆布もまた新たなインフラによる「原点」の移動が、文化を成熟させた好例です。江戸中期から明治期にかけて、大阪と北海道を結んだ北前船は、松前藩の上質な昆布を西日本各地にもたらし、塩昆布が大阪の家庭料理に定着しました。都市で不用になった木綿の古着や端切れを、行き帰りの北前船が東北の寒冷地へと運び、裂織などの伝統工芸を生みだす「原点」となったことも、同じ現象でした。
このように、私たちの日常文化のなかにも、新たなインフラや環境の登場が可能にした「原点」の移動として、その発展、成熟、洗練を理解できるものが多くあります。
新しいインフラの誕生が、文化と産業の創造の「座標軸」を連鎖的に生み出す現象は、現代でも見られます。
スマートフォン関連技術は、その典型でしょう。二〇〇七年一月、初代iPhoneが発表されて以降、スマートフォンという新たな土台の上に、世界中の開発者が膨大なアプリケーションを生み出しました。スマートフォンは、写真を撮り、言葉を添え、瞬時に見知らぬひととも共有するという、開発当初は想定していなかった行為を私たちの日常の一部としました。そして、そうした視覚と言語の組みあわせは、現代における多くの流行や文化の新たな「座標軸」となりました。
インフラの進化によって生まれた新しい文化の受容が創造の「原点」となり、その原点からの新しい歩みが「座標軸」を形成して、さらなる時空を創出し、それが次の「原点」となる。このような「知」を生む連鎖は、歴史のあらゆる場所に見出すことができます。
驚くべきことに、そうした「原点」と「座標軸」の組み直しを、私たちの脳は日常的に行っています。
それは主観と客観の切り替えです。たとえば、空間認識を司る海馬には「場所細胞」と呼ばれる神経細胞があり、場所Aから場所B、場所Cへと歩くと、それぞれの場所に対応する細胞が順番に活動する形で、私たちの脳には空間の地図が描き込まれています。その際に、二つの異なる座標系を用いて世界を把握しています。一つは、自分から見てどの位置にあるのかを相対的に示す主観的な座標で、もう一つは、空間全体との関係で自分がどこにいるのかを示す、客観的な座標です。脳は相反する二つの座標系を柔軟に切り替え、あるいは重ね合わせながら用いることで、豊かでしなやかな空間認識を可能にします。
私たちは日々知らず知らずのうちに「原点」を定め直し、「座標軸」を組み替えながら、世界を理解しているのです。
東京大学はこれまで、大学一・二年生の前期課程で幅広い教養を修得し、大学三・四年生の後期課程で専門を深く学ぶLate Specializationという学習形態を大切にしてきました。一方近年では、ある程度専門性を身につけた段階でそれを相対化し直す後期教養教育、いわゆるLate Generalizationを通した学びも重要だと考えています。これらはいずれも本質的には同じ問いを投げかけています。すなわち、「原点」と「座標軸」を組み直すことが、分野を超えて包括的に「知」を獲得するためのエッセンスなのではないか、という問いです。
生成AIといった、新たな技術がもたらす座標系をも臆せずに取り入れ、自分の位置と方向性とを考え、世界の見え方そのものをデザインし直していく。このような営みの中からこそ新しい「知」が生まれます。みなさんには、新しい「座標軸」への移行をおそれずに「原点」を引き受ける勇気を持っていただきたいと思います。みなさんの想像力と情熱が、望ましい世界を創る変革の駆動力となることを、心から期待しています。
(東京大学総長)
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