教養学部報
第672号 ![]()
〈後期課程案内〉 農学部 ビタミンB1の発見に見る農学の研究教育のスタンス
農学生命科学研究科長・農学部長 東原和成
イギリスの農業革命を受けて、日本でも明治初期から近代農学が発展しました。初期にはお雇い外国人教師によって西洋農学が導入されましたが、次第に日本人研究者による教育と学問が進み、その中で、その基礎を築いた人物の一人が鈴木梅太郎先生です。鈴木先生は、当時の大きな社会問題であった脚気に取り組み、ビタミンB1を世界で初めて発見したことで有名です。鈴木先生はそのほかにも、米不足に対応するために合成酒を開発したり、日本初の育児用粉ミルクを開発したり、社会課題の解決に直結する研究を数多く行いました。農学は「食料を生産して食する」という人類の根源的な活動を対象とする学問として発展してきたのです。
鈴木先生はなぜ脚気の問題に取り組んだのでしょうか。鈴木先生はドイツに留学した時、体格があまりにも違うドイツ人を見て、日本人はなぜこんなに小さいのか、何か栄養が違うのでは、と思ったそうです。それが、栄養の研究に取り組むきっかけになったそうです。もう一つは、留学先の恩師のエミール・フィッシャー博士から、東洋特有の問題に取り組みなさいと言われたそうです。そこで、当時日本社会を悩ませていた脚気の解決に挑んだのです。純粋に不思議だなと思ったことを追求する好奇心主導型の基礎研究と、社会課題に向き合う応用研究の姿勢が融合している点は、農学の特徴的なフィロソフィーと言えるでしょう。
当時、医学界では、伝染病の細菌がどんどん見つかっていたこともあり、脚気は細菌による感染症であるという説が主流でした。それに対して、鈴木先生は栄養素の欠乏による「物質説」を主張しました。最初は、無機成分の欠乏が原因であると提唱しましたが、最終的に新規の物質であるオリザニン(米糠から採れたので稲の学名のOryzaからとった)を見つけて、それが世界で初めてのビタミンの発見になったわけです。一方で、医学界からはいじめられたようで、当時医学界の大立者であった森鷗外博士は「米糠で脚気が治るのなら、小便を飲んでも治る」といって馬鹿にしたそうです。生命現象を「物質」の視点から理解しようとする姿勢は、農学の重要な特徴です。
脚気の研究のように、基礎研究や社会課題に対する研究は、どの学部でも行われています。つまり、研究の現場では、医・薬・農・理・工の境界はしばしば曖昧です。近年では、文理の境も薄れ、学際的研究が増えています。では、学部それぞれは何が違うのでしょうか? それは「視点」の違いです。例えば、私がやっている嗅覚の研究を例にとると、医薬では嗅覚障害の治療、工学では匂いセンサー開発、理学では神経機構の解明などを目指していますが、私たち農学では、匂い・香り・フェロモンは環境生態系の生物同士のコミュニケーションや食のおいしさに関わる要素として捉えるなど、そういう視点で研究をしています。
生き物の力を知り、地球と環境の持続性を見極めながらその力を社会に活かしていこうというスタンスは、農学の研究者に特徴的に見られるものです。学部の垣根をなくすべきだという議論もありますが、私は医・薬・農・理・工がそれぞれ異なる視点と教育方針を持っていることが、日本の学術の特徴・優位性だと思います。例えば、同じ有機化学でも、学部によって扱う視点や目的が異なり、多様なアプローチから学術研究をやっていることが日本の学問の独自性と強みになっていると思います。
自然の「力」を使うにも、学問分野によってスタンスが大きく違います。私たち農学人は、植物・動物・微生物の力を使ってやろう、といった人間中心で人工的なスタンスではありません。その「力」を使わせていただく、という寄り添うスタンスです。もともと日本人は自然に寄り添う民族です。例えば、欧米の料理の多くは、香辛料などで「力」同士をぶつけて美味しさを創り出しますが、日本料理は、食材の香りや味を壊さず、食材の持っている自然の「力」を引き出す料理です。そんな私たち日本人のゲノムに埋め込まれた気質だからこそできる研究があると思います。
AIに農学人の特徴は?と尋ねると、「自然・動植物への深い愛情と興味を持ち、地道な観察や栽培・実験を根気強く続けられる忍耐力を持っています。失敗を恐れず試行錯誤する探究心や、食・環境・地域社会への関心が高く、理論と実技を融合させて現場の課題を解決する力を持つのが特徴」と答えてくれました。実は私は、鈴木梅太郎先生の研究室を引き継いでいます。でもビタミンの研究はしていません。伝統を継承することも重要ですが、新しい課題に果敢に取り組むことも求められます。農学というあたたかい学問分野で学び、現代に求められる柔軟で機敏な発想とフットワーク力を鍛えてみませんか。
(農学部長/生命化学工学)
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