HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報672号(2026年5月 7日)

教養学部報

第672号 外部公開

<駒場をあとに> 学術の地平を拓くアテナイの学堂たる駒場

太田邦史

image672-07-1.jpg 東京メトロの東大前駅にはラファエロによる『アテナイの学堂(Scuola di Atene)』をモチーフにした壁画が描かれている。この絵には、画面の中央に配置されたアリストテレス(地上の現実)とプラトン(天の理想を象徴)に加え、ピタゴラスやソクラテスなど、古代ギリシャの哲学者や科学者が五十人ほど描かれている。私にとって駒場とはまさに『アテナイの学堂』のような存在であった。駒場はリベラルアーツの総本山のような場所であり、まさに天の理想を目指す人々が集い、自由闊達な議論が行われている。とくに、研究の一線で活躍する碩学の教員が初年次の学生の心に真理探究の火を点し、人格面の陶冶を目指す教育を行うという、矢内原忠雄初代教養学部長の理念は本当に素晴らしいと思う。一方で、慢性的なリソース不足や忙しさ、多様な専門分野の共存による困難さなど、地上の現実にも直面している。天の理想と地の現実が共存しているところが駒場の醍醐味であろう。

 二〇一九年に教養学部長を拝命することになったが、これだけ多様な意見を有する構成員とどのようにこの組織をまとめていったら良いのか、正直とても不安だった。駒場の教授会は一歩間違えばテコでも動かなくなる怖い存在であったからである。そんな中で二〇二〇年に新型コロナウイルス感染症が到来した。他の大学では授業開始時期を延期して対応する動きがあったが、どう見てもコロナの問題は早期に解決しそうにないと直感した。すべきことは海外の大学と同じく、オンラインで授業を実施するしかない。ところが、駒場では二千を越える科目が存在し、それには実習や体育実技が含まれる。また、必ずしもZoomなどのデジタルツールになれていない教員も多かった。試しに三月の教授会でオンライン授業について恐る恐る聞いてみたところ、「正直うちでは難しいですね」とけんもほろろであった。

 ところが、この後私は駒場の底力を見た。駒場の教員はいろいろな主義や意見を持つ教員や職員の集合体である。しかしながら、「学生思い」という一点では全ての構成員が一致していた。まさに「学生たちの学びをコロナで止めてはいけない」という一心で全構成員のベクトルが揃い、研究科長室のメンバーをはじめ、全教職員の獅子奮迅の働きにより、おそろしく短時間でオンライン授業の体制が整備された。鶴見研究科長補佐や四本研究科長補佐の働きで、入試並みに厳しい監督が必要な定期試験のオンライン化も何とか対応できた(生成AIが発達した今だったら無理かも知れないが)。また、情報基盤センターや本部のコロナタスクフォースと連携して、ノウハウをuteleconで日本全体に展開できたことは、今考えるととても良かった。これによって日本の大学全体でオンライン授業での対応が迅速に進み、大学関係者の犠牲者や学びの遅れを最小限に留めることに貢献できたかと思う。(実際後年多くの他学の先生から「駒場のノウハウがあったお陰で助かりました」と感謝された。)まさに「やればできる!」という得がたい経験をさせて頂いたことは生涯の宝物であった。

 駒場での研究についても期待以上の経験ができた。とくに複雑系生命システム研究センターや生物普遍性連携研究機構で数学や物理の先生と共同研究を行い、これまでに誰もチャレンジしたことのない領域に挑戦できたことは僥倖であった。また、東アジア藝文書院などの活動と連携して、自分の理系専門分野と哲学などの人文社会系の先生との交流を行うなかで、文理横断的な見識を広げることができた。駒場はこれに限らず、新しい学術を創出する非常に良い環境であったと思う。その基本は、構成員同士のリスペクトに加え、気軽にものを言える「心理的安全性の高さ」ではないかと思う。是非この点は今後も継承して頂きたい。

 教育面でも、一年生から教えられるのはとても幸せなことであり、何人かの学生が後期課程で私の研究室に参加してくれることになった。授業の最後に学生から寄せ書きを頂いたこともあるし、授業のリアクションで随分励まされたものである。これらの恩義に少しでも報いるべく、あまり得意ではない学内行政でも努力するようにした。教養学部後期課程の学科再編成、学部教育の総合的改革での学事暦策定、教養学部の人事や予算リソースの拡充、全学の学部定員の調整、PEAK改革案の策定、生成AIへの対応など、文字にすると短いがとても面倒で根気の要る仕事を優れた教職員の方々と担うことができた。とくに本学の職員の方々の類い希な能力の高さと志の高さには心より感謝を申し上げたい。本学は今後対応すべきことは多いので、後ろ髪を引かれる思いではあるが、後進の方々による「アテナイの学堂」を支える働きを影ながら応援させて頂きたいと思う。

(生命環境科学/生物)
2026年3月5日ウェブサイト掲載

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