HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報672号(2026年5月 7日)

教養学部報

第672号 外部公開

<本の棚> 乗松亨平 著 『ロシア宇宙主義全史──神化思想からトランスヒューマニズム・人新世へ』

星野 太

image672-8-2.jpg この一五年ほど、評者が関心を寄せる現代思想や現代美術の領域で「ロシア宇宙主義」という言葉をしばしば耳にするようになった。具体的には、批評家のボリス・グロイス(一九四七生)、アーティストのアントン・ヴィドクル(一九六五生)といった人々の仕事を通じて、ロシア宇宙主義は、いつしかわたしのような門外漢にとっても無視しえないものとなった。

 本書『ロシア宇宙主義全史』は、さきだって『ロシア宇宙主義』(ボリス・グロイス編、河出書房新社、二〇二四)の監訳者を務めた著者による、待望の入門書である。刊行されたレーベル(講談社選書メチエ)の性格から入門書という言いかたをしたが、その表現が適切であるかどうかはわからない。なぜなら本書には、ロシア宇宙主義の捉えかたをめぐって、専門的な見地からいくつもの踏み込んだ指摘がなされているからである。

 そもそもロシア宇宙主義とは何か。それは、一九世紀後半の宗教思想家ニコライ・フョードロフを筆頭として、人間の不死・復活と宇宙進出を説いた思想や文化の総称であるという。とはいえ、誰をロシア宇宙主義に含めるかの判断はかならずしも一様ではなく、フョードロフのような宗教思想家をはじめ、革命家や科学者もしばしばそこには含まれる。帝政末期のロシアからソ連にかけての約一世紀という長い期間を扱うにあたり、本書がまず目をむけるのは「近代ロシアの空間表象」(第一章)である。著者によれば、ロシア宇宙主義はまずもって「独自なロシア」をつくりだそうとする試みのなかから生まれた。「不死」と「宇宙」というロシア宇宙主義の核心的なテーマは、それぞれ〈時間的無限〉と〈空間的無限〉の探求とみなしうる。こうしたいっけん突拍子もないテーマが、世界でもっとも広大な国土を有するロシアの独自性を示す試みのなかから登場したのだということが、本書の第一章では説得的に論じられる。

 そこから、本書はロシア宇宙主義の歩みをおおむね時代ごとに追跡していくことになるだろう。そこでは始祖フョードロフに始まり(第二章)、長寿・若返りを目的とした血液交換の実験で知られるボグダーノフ(第三章)、ロケット技術による宇宙飛行の可能性を示した在野の科学者ツィオルコフスキー(第四章)、「生物圏」をめぐる理論で知られる地球化学者ヴェルナツキー(第五章)らが大きく取り上げられる。さきだって述べたように、ロシア宇宙主義では宗教家や科学者の存在感がもっとも大きいが、作家ゴーリキーや画家マレーヴィチをはじめ、ロシアの思想・文化・芸術に幅広く視線が注がれていることも、本書の大きな特徴である。

 本書が、これまでのロシア宇宙主義の捉えかたに対して示すチャレンジは、おおよそ次のように要約される。従来の言説によれば、ロシア宇宙主義の基本理念とは、人間を有限から無限へ進化させるという目的を共有し、それにむけて人類全体が意志的に行動していくという「能動進化」だったとされる。フョードロフが謳う、すべての人間の不死・復活という目的のためには、「すべての人間がその目的を共有し、協力することが必要だ」(八~九頁)と考えられたのである。著者はこの見かたを踏襲しつつも、能動進化とは対照的なもうひとつのキーワードを導入する。それが、本書で「統計学的理念」と呼ばれるものである。能動進化が、個が意志をもって全体と調和するという考えを基礎とするのに対し、ロシア宇宙主義後期には、個の集合としての全体が、個の意志や行動とは独立した規則に従うという発想が現れる。著者は前者を「個と全体の有機的調和の理念」、後者を「個と全体をめぐる統計学的理念」と呼ぶことで、ロシア宇宙主義のなかに個と全体をめぐる二つのモデルを見いだすことに成功している(これはおおむね、本書の第二・三章、第四・五章に対応すると考えてよい)。

 最終的に本書は、トランスヒューマニズムや人新世といった現代的な思潮・問題と接続することで、ロシア宇宙主義にさらなるアクチュアリティを付与する(第六章)。エマヌエーレ・コッチャやユク・ホイといった──評者も個人的に知っている──現代の哲学者たちとの対照を通じて示されるのは、「ロシア」という特定の地域・国家に結びつけられた思想が有する、さらなる展開可能性であろう。本書が提示する「個と全体」をめぐるロシア宇宙主義の二つの理念は、そのためのもっとも重要な足がかりであると思われる。

(超域文化科学/哲学・科学史)

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