教養学部報
第672号 ![]()
連濁と「縄梯子問題」
田中伸一
言語学の難問の一つに、大津由紀雄氏がMIT在籍時の一九八〇年に提起した「縄梯子問題」がある。[なわ]+[ばしご]という複合語の「ば」に、二つの制約に違反してまでなぜ連濁が適用されるのかという未解決問題である。「はしご」が一語だとすればライマンの法則([かけ]+[そば]のように後半部に濁音があれば連濁しない)に違反し、「梯+子」が二語だとすれば右枝分かれ構造の制約([みそ]+[たぬき+じる]のように後半部の修飾語は連濁しない)の違反となる。「梯」は高所から低所に架ける橋、「子」は小道具の意味である。
一般に、右枝分かれ構造[にほん]+[ぶんがく+きょうかい]は全体を一語化しない(アクセント核「・」が二つ生じる)のに[あめりか]+[ぶんがく+きょうかい] 「米国にある文学一般の協会」で一語化するのは、 [あめりか]が無核ゆえ複合語全体のアクセント核が一つだからである。この際、左枝分かれ構造を持つ一語化された[あめりか+ぶんがく]+[きょうかい]「アメリカ文学に関する協会」と曖昧になる点が重要である。[にほん]〜は有核ゆえ曖昧性は生じない。ここでわが言語情報科学専攻に在籍し、枝分かれ構造の一語化と連濁をそれぞれ実験研究している二人の博士課程学生の成果により、新展開が望めると気づいた。
実は、前半が和語・外来語だと無核化する傾向が強い。[みそ]+[たぬき+じる]や[おんらいん]+[いんぐりっしゅ+れっすん]も、[みそ]や[おんらいん]が無核化して一語化する。[にほん]+[ぶんがく+きょうかい]は、漢語ゆえそうならない。桑原咲弥氏は複合語において、こうした「語種」が一語化に与える影響について研究している。一方で曽根雅輝氏はこれに連濁を絡め、[黒]+[狸]+[傘]という語の組み合わせから「狸の絵を描いた黒い傘(右枝分かれ)」と「黒い狸の絵を描いた傘(左枝分かれ)」の二つのイラストを被験者に見せ、それぞれどう発音するか(生成実験)、こちらがそれぞれ発音してどのイラストを選ぶか(知覚実験)を観察した。驚くべきか、右枝分かれのイラストでも[くろ]+[だぬき+がさ]の連濁率や、連濁した発音から「狸の絵を描いた黒い傘」の選択率が、意外に高い結果を得た。当然、[くろ]は有核だが和語ゆえに無核化し一語化する。つまり、無核化による一語化は構造の曖昧性を喚起し、右枝分かれから左枝分かれに切り替えて連濁を可能にする。異分析(構造の誤認識、英語のa napron→an apronの歴史発達が有名)である。
日本の[シャコ+ガイ]にも[オオ]+[シャコ+ガイ]、[ヒレ]+[シャコ+ガイ]、[ヒメ]+[シャコ+ガイ]などがいるが、[オオ+ジャコ]、[ヒレ+ジャコ]、[ヒメ+ジャコ]と略す人に正式名称を問うと、[オオ+ジャコ]+[ガイ]、[ヒレ+ジャコ]+[ガイ]、[ヒメ+ジャコ]+[ガイ]と連濁して答える。実際にネットの海に繰り出せば、異分析版がウジャウジャいる。結局、[くろ]+[だぬき+がさ]には「黒狸」の誤連想が、[なわ]+[ばし+ご]には「縄橋」の誤連想が働き、[くろ]も[なわ]も和語ゆえ一語化して枝分かれの切り替えがあり、二つの制約違反を犯してまで連濁するのであろう。この推察は、半世紀近くの理論言語学の謎を心理実験的検証により解決する可能性を秘めている。
(言語情報科学/英語)
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